朝日俳壇で活躍していた山口誓子の作を刻んで昭和50年に建立されました。
剛直の 冬の妙義を 引寄せる
熊野神社由緒
山口誓子句碑
鳥居の手前の県境標示
苔むした常夜燈
常夜燈前に建つ安政遠足決勝点標柱
当社は県境にあり、御由緒によれば、日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれた時、八咫烏(やたがらす)のお道案内によって無事嶺に達することができたことにより、熊野の大神を祀ったと伝えられる。
碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され、走水(はしりみず)で入水された弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を偲ばれて 「吾嬬者耶(あづまはや)」
と嘆かれたという。(日本書紀より)
これら御由緒より 「日本太一」 という烏午王札(からすごおうふだ)が古来から起請文や厄難消除の御神札として頒布されている。
歴史大略
鎌倉時代に武士団等の篤い信仰を受け、群馬県最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている。
江戸時代には諸大名をはじめ、多くの人々が中山道を行き来した。関東の西端に位置し、西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地として、権現信仰が最も盛んとなった。
「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」 と旅人に唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わって行った。