「九夏」 は、文化12年(1815)ここ 「こんどうや」 に生まれる。
 幼い時から学問に励み、その多才ぶりは以下の自伝でもうかがい知ることができる。
 われ7歳にして学問に入り、9歳にして歌俳諧んき志し、12歳より書画に心を書し、かくの如く老年に至るまで風雅を捨てずと雖も何一つとる所なし。
 ある時、竹を画きて其讃に呉竹の千尋のかげは写しても世にとどむべき一ふしもなし竹を好むによりて、またその名を竹翁と号し一筋に直なるかげを写しおく。
  竹のおばなをあわれにも見る (九夏)
 明治37年89歳で没す。
 なお、同人は郷土の俳人中村碓嶺の弟子である。

中山道坂本宿と記された木戸のモニュメント

俳人武井九夏説明

 慶長7年(1602)、江戸を中心とした街道整備が行われたとき、五街道の一つとして江戸・京都を結ぶ中山道132里(約540㎞)が定められ、この間に69次の宿場ができた。
 その一つに坂本宿が設けられ、宿内の長さ392間(約713m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸・・下木戸が作られた。
 本木戸は下木戸と称せられ、当時の設置場所に一部復元したものである。木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前6時)から暮れ六ツ(現在の午後6時)までであった。
 実際には木戸番が、顔が識別できるところで判断したようである。文久元年(1861)の絵図によると、8間1尺幅(約14.8m)の道路に川幅4尺(約1.3m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家160軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。
 雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越します坂本へ

下木戸跡説明

坂本町記念碑(左)と戦没者顕彰碑(右)