東海道箱根関所と並び称される中山道碓氷関所が、現在地に設置されたのは元和9年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山が迫って峡間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。
寛永10年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で 「入り鉄砲に出女」 を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子が国元へ逃げ帰るのを防いだのです。
しかし18世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所の改めも緩やかになります。享和3年(1803)以後は 「女改め」 が簡略化され、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治2年(1869)2月に関所を廃止しました。
碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)ち東門(安中藩管理)で区切り、間の52間2尺(約95m)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峯番所を置いて二重に監視しました。
醍醐天皇の昌泰2年(899)に群盗を取締るために、関所が碓氷坂に設けられた。
この地に関所が移ったのは、元和年間(1615-23)といわれ、幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、いわゆる
「入鉄砲に出女」 の取締りをねらいとしたものになった。明治2年(1869)廃関されるまで中山道の要所となった。
門柱および門扉は当寺使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。ほかに屋根材6点と台石も当時のもので、昭和34年1月、東京大学教授工学博士藤島玄治郎氏の設計により復元された。
この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。
(松井田町教育委員会)
御堂
碓氷関所の門説明
碓氷関所の沿革
復元された関所門
おじぎ石
碓氷関門復原碑
通行人はこの石に手をついて手形を指し出し通行の許可を受けた。