詩聖タゴールについて
アジアで初めてノーベル文学賞を受けたインドの詩人ラビンドラート・タゴールが軽井沢を訪れたのは、大正5年(1916)の夏であった。
この詩人は、文久元年(1861)にカルカッタの地主の家に生まれ、ラビ(太陽)と名付けられた。父は大聖者と呼ばれた求道の人であり、時々ラビをヒマラヤの峰に連れて行き、宇宙の霊に呼びかけることを教えた。
後にラビは、古代の教育法を求めて、今日のタゴール大学の前身となった森の学校を始めた。大正2年(1912)には、タゴールが自ら英訳した 「神への献け歌」
がノーベル文学賞の受賞となった。
その翌年の夏、第一次世界大戦が起こって、ヨーロッパは互いに憎しみ殺し合っていた。当時インド綿花の輸入によって、日本は繊維工業の隆盛を得ていたこともあって、国賓としてタゴールを招待した。詩人は、日本人の美と調和を愛する心に感動したが、他方、日本軍国主義の台頭には強い心配を持ち、公演の中で再三警告した。
8月には、日本女子大成瀬仁蔵学長の招きで、軽井沢の三井邸に滞在し、毎朝真珠のような詩を女子大生たちに読んで聞かせ大樅の樹下に座って、祈りの講和をした。
軽井沢は噴火山のないインド亜大陸の詩人に、尽きることない詩の泉となった。
「神は名もない野の草に、何億年もかけて、一つの花を咲かせ給う」
「大地一面の微笑みを咲かせるのは、天地の涙あればこそだ」
タゴールはその後2回日本を訪れたが、最後の講演では 「自己中心の文明は隣の国民を焼き尽くす武器を発明するようになる。くれぐれも 「人類は戦わず」
を守るべきだ」 と述べ、原爆を予言するような言葉も残した。
昭和16年(1941)8月7日、広島・長崎の原爆投下やインドの独立を知ることなく、たくさんの作品を残して、その80歳の地上の生涯を閉じた。
(軽井沢町)
万葉集歌碑
日の暮れに うすひの山を こゆる日は せなのが袖も さやにふらしつ
ひなくもり うすひの坂を こえしだに いもが恋しく わすらえぬかも
県境のモニュメント
妙義山方向を望む
遠くまで山並みが連なっている
詩聖タゴール像