この常夜燈は、文化5年(1808)に地元の碓氷郡郷原村(現安中市郷原)を中心とする 「妙義講」 の人々が、当時、原市村(現安中市原市)に仮住まいしていた 「信州伊奈郡手良郷野口村向山民吉」 という石工に建立させたものである。
 常夜燈の露盤の四面と笠の正面には16弁の菊(八重菊)の紋章が刻まれている。
 また、塔身の正面には 「白雲山」、東面に 「文化5年戌辰4月7日」、西面に 「当所講中」 と刻まれている。
 また、台石には 「是より妙義道」 と刻まれており、妙義神社への参詣者のための道しるべとなっていたことがわかる。切石積みの台座には、妙義講中67名と石工の名前が刻まれている。
 なお、元々この常夜燈はここから東へ50mの中山道から妙義道への入口にあったが、昭和60年3月に現在地に移転したものである。
 (安中市教育委員会)

月の入る西の都をさし行けば帰らぬ旅に迷路もなし

新島襄の祖先の墓入口標柱

妙義道常夜燈

郷原の妙義道常夜燈説明

 中後閑より郷原の中山氏へ養子に来て12代目を継ぐ剣撃の師範中山秀次郎氏の父板鼻の中山三郎氏の祖先である。学問にたけており、江戸時代から明治の初めにかけて寺子屋を開いていた弟子たちが師を偲んで建てた碑である。

中山貞輔氏の碑説明

道祖神

中山貞輔碑