新島襄先生は、天保14年(1843)江戸神田一橋板倉藩邸に生まれ、22歳の春、危難を冒して日本を脱出、翌年7月北米合衆国ボストンに着き、フィリップ高校、アーモスト大学、アンドヴァ神学校を卒業、1874年11月26日横浜着帰国、同29日朝、10年余待ちわびた両親をこの家に訪ね互いに喜び極まる。
 滞在約3週間、家人郷党に西洋文学とキリスト教を語り、時には竜昌寺を借りて演説し、上州伝道の礎石を置く。
 かくて安中は当寺開港場を除き、国内キリスト教初伝の地となる。
 先生は去って翌年京都に同志社を建て、1890年大磯にて永眠、48歳、国内をあげて悲しむ。この家はもと廃藩置県、江戸藩邸引き払いに伴い、この南東100mの地に建て、昭和39年安中市は有志とはかり、これをここに移し修理復元す。
 (安中市)

 この碑は、新島襄先生の事蹟を簡潔に記述したもので、撰文と書は湯浅半月(本名は吉郎、湯浅治郎の弟)である。碑文は以下のとおりである。
(碑表面)
 新島襄先生は、天保14年正月14日安中藩板倉候の江戸御屋敷に生まれて、明治23年1月23日48歳にして大磯の客舎に永眠せられしが、其の故郷は此處なりき。維新改革の風雲中海外に脱走して在米10年の苦学を竟(お)へて、明治7年の冬家に還りて老いたる父母の健全なるを見て感涙に咽ばれしも此處なりき。祖父辣治翁及び弟雙六氏は、此の帰朝を待ち詫び居たれども遂に遇はずして世を去られしも此處なりき。日本内地に基督教の伝道を公然開始せられしも此處なりき。又明治11年の春、男女30人に洗禮を施して純粋なる日本人の基督教会を創立せられしも此處なりき。然れば、先生は熱誠なる我が皇国の愛国者京都に同志社大学を興して、我が国民の精神を育成せられし教育者且つ此處に記念教会堂の在るをみれば、故郷に於いてさへも尊ばれたる預言者なりき。昭和16年1月23日此處に此碑を建つるは半田善四郎大人になもありける。山川悠遠先生在世んお昔も今の如し、妙義山よ碓氷川よ、汝等永遠に此碑を守護せよ。
 新島先生記念の碑 半月撰併に書
 10年待つ父にヨセフは逢にけり神には今も古もなし 時年84
(碑裏面)
 昭和27年6月 半田善四郎建立 廣神瑞石刻石
 (安中市教育委員会)

半月詩碑

新島襄先生之碑説明

 この碑は、有坂新助先生(号は緑堂)の詠書浅間山の漢詩碑である。
 左に読み下し文を記す。
   闥を排すれば隴頭四望足る
   三山は鼎立す國の中央
   西浅嶽を望めば暮煙黒く
   趺坐居然として八荒を圧す
 有坂先生は、明治12年(1879)に生まれた。明治42年に東京師範学校国語漢文部を卒業し、以後、前後30年にわたり、郷土の育英に従事、正六位勲六等に叙せられた。
 この碑は、昭和45年に有坂先生90歳の長寿を祝し、郷党子弟相計り建立除幕したものである。
 (安中市教育委員会)

漢詩浅間山の碑

 この碑表は、湯浅半月が明治18年(1885)同志社卒業式の席上朗読し、喝采を博した自作の新体詩 「十二の石塚」 のうち、緒言十句を同年刊行の初版本をもとに、彫刻家分部順治氏が制作したものである。
 旧約聖書の 「土師記」 に題材を求めたこの詩は、近代詩の草分けとして当時の青年たちに鮮烈な印象を与えた。
 署名 「半月」 は自筆、題字 「半月詩碑」 は徳富蘇峰の真筆、碑陰の半月略歴は英文学者で半月研究科山宮允氏による。昭和30年有志寄附により建碑された。
 (安中市教育委員会)

 安中藩主板倉勝明(1809-57)は、殖産興業政策の一つとして、領民に漆の栽培を勧め、安政3年(1856)に領内の閑地に100万株の漆の苗木を植えさせた。
 この石碑は、その利益の配分を定めた記録である。その配分方法は、「その利を4分し、1分を以って田主に与え、1分を以って費用に供し、1分を以って諸を官に納め、而してその1分を以って封内の窮民を賜わし」 と記され、これを石に刻んで後世の 「農を司る者」 がこの取り決めを違うことがないようにさせようと結んでいる。
 しかし、翌安政4年(1857)板倉勝明が没し、苗木も洪水や野火等によって失われ、また漆にかぶれるといった被害の為、成功するには至らなかった。
 (安中市教育委員会)

新島襄邸説明

新島襄先生之碑

漆園の記碑説明

安中市指定史跡新島襄先生旧宅

漆園の記碑