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中山道   (岡部~安中)

岡部から安中までは、本庄宿、新町宿、倉賀野宿、高崎宿、板鼻宿、安中宿とあり、約39kmの道程である。

平成26年6月2日(月) ☀  岡部~倉賀野  23.8㎞
昨夜お腹が冷えて何となく調子が今一だったが、天気は今日を見逃すと暫く雨天が続く梅雨入りの状態となるので、通勤時間帯が始まる前に家を出て、岡部に着いたのは7時20分である。前回終了した場所まで出て、8時ちょうどに出発した。

岡部駅 全昌寺 馬頭観音 百庚申
駅改札・駅舎は北口のみで、駅南側へは一旦改札を出て陸橋を渡らなくてはならない。駅でトイレによって出発した。 島護産泰神社の先の十字路を越えると左側に曹洞宗の全昌寺がある。
岡部陣屋は2万石の大名としてこの付近を領した安部家の居城であったが、その岡部陣屋の長屋門が移築されている。
全昌寺の横には岡林寺がある。

全昌寺の先の小川を渡ると道はY字路になり、角地に馬頭観音が建っている。
馬頭観音の脇には、中山道古道についての説明が刻まれた石碑がある。
馬頭観音の先右手に村社寅稲荷神社の石柱があり、右の坂を下りて行くと左手土手一面に庚申塔が安置されている。
百庚申が建立されたのは、幕末の万延元年庚申の年(1860)で、岡の有志13人によって計画され、万延2年に完成した。万延元年は黒船来航により、鎖国が破られ国情騒然となり、この不安と庚申年が重なったところから、多数の庚申塔が造られたという。

滝岡橋 諏訪神社 馬頭観音 八幡大神社
百庚申を過ぎると深谷バイパスに突当るので、ここを渡り、開けた田園の道を進むと正面に高い石塔が見えてくる。石塔は、稻垣一等卒殉烈紀念碑である。
石塔の先に小山川に架かる滝岡橋がある。江戸時代は渡しがあった。
滝岡橋を渡って堀田の集落に入ると右側に諏訪神社がある
往古甲斐の国士逸見儀左衛門は信濃国の諏訪大社を深く崇敬していた。永禄10年(1567)の頃に、この逸見家が没落した際、その一族が武蔵国に来て、堀田の字下諏訪の地に土着し、同地に諏訪大社の分霊を勧請して一族の祈願所とした。
本庄市立藤田小学校の向かいに馬頭観音と双体道祖神と思われる石碑が安置されている。
藤田小学校交差点の先左側に八幡大神社があある。八幡大神社は、建久年間(1195)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。鳥居には瓦屋根が敷かれており、境内には神楽舞台、石祠、大神碑がいくつか祀られている。

宝珠寺 長屋門 子育地蔵尊など 長屋門
八幡大神社の先右側に杉並木の参道の宝珠寺がある。宝珠寺は、真言宗豊山派の寺院である。
文明9年(1477)五十子合戦で古文書等焼失、寛政2年(1790)村内の失火により建物を焼失し、現在の本堂は文政2年(1819)に建立し再興したものである。境内には、六地蔵、地蔵堂などがある。
街道右手の藤田郵便局の向かいには白壁が剥がれ落ちた小川家の長屋門が街道に面して建っている。
この先の民家の前には、浅間大神の板碑が安置されている。
街道がゆるく左にカーブするY字路角地に子育地蔵尊、賽ノ神の石碑、庚申塔が安置されている。
子育地蔵尊から程なく右手内野歯科医院の前に立派な長屋門が建っている。

傍示堂 新泉橋 庚申塔 大正院
長屋門から180m程先で、街道が左に折れる傍示堂集落センターの隣に小さな土蔵造りの傍示堂が建っている。
傍示とは境界を示すことを意味し、境界に御堂を建て傍示堂と呼んだ。
ここは、かつて武州上州の境であった。脇には、高床式の祠がある。
傍示堂の先には、本庄市と熊谷市を結んでいる新泉橋がある。
旧中山道は元小山川に架かる新泉橋を渡り、国道17号線を日の出四丁目交差点で横断する。
日の出四丁目交差点を渡ると緩やかな 「御堂坂」 を上って行く。この辺りから本庄宿に入ることになる。
坂の途中左側に庚申塔が建っている。左の2基は馬頭観音である。
中山道交差点の先左側に大正院がある。
大正院は、真言宗智山派に属し、当初、薬王山瑠璃坊と称したが、その後大正院と改めた。
境内には、不動堂と薬師堂があり、傍らには馬頭観音が建っている。
薬師堂は旧本堂である。また不動堂には、寺宝である不動剣が納められている。

円心寺 土蔵 愛宕神社 田村本陣の正門
大正院の先、街道右手に円心寺がある。円心寺は、浄土宗の寺院で山号を要行山という。
御本尊は阿弥陀三尊で、赤い山門は本庄市指定文化財となっており、境内には、六地蔵を配置した無縁塔がそびえている。円心寺へ向かう途中の民家前には、3基の文字庚申塔が並んでいる。
本庄駅入口交差点先の埼玉りそな銀行隣が本陣跡と言われているが、石碑や説明板など何もない。門だけが市の歴史民俗資料館に移築されている。
この辺りは、宿場らしい建物は見当たらないが、古めかしい土蔵がいくらか残っている。
足利銀行の向かいの細い路地を入って行くと愛宕神社がある。
愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。神殿に至る石段の左手にあるケヤキは御神木とされており、根元から南北二樹に分かれている。両木とも目通周囲4mほどで、本庄市指定の文化財になっている。木の下には、道標を兼ねた庚申塔が建っている。
中央3丁目交差点を右折した本庄消防署横に歴史民俗資料館があり、その前に本庄宿の北本陣であった田村本陣の正門がある。
資料館は、明治16年に旧本庄警察署として建設された建物を利用したもので、木造二階建て瓦葺きで正面のベランダにはコリント式の列柱を配している。

安養院 金鑚神社 諏訪神社 浅間山古墳
歴史民俗資料館の向かい側に安養院がある。安養院は、曹洞宗の寺院で山号は若泉山という。
文明7年、武蔵7党の1党である児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依し、当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたため、土地を探したところ、現在の地を発見し安養院を開祖した。以後水不足もなく、周辺の人々から 「若泉の荘」 と呼ばれたという。
千代田3丁目交差点の手前に金鑚(かなさな)神社がある。本庄宿の京(西)口に位置し、本庄の総鎮守である。境内の御神木のクスノキは樹齢350年と推定され埼玉県指定天然記念物になっている。
本殿と拝殿を幣殿でつなぐ権現造の社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っており、猿田彦大神、八坂神社、太子社などの境内社がたくさんある。
千代田3丁目交差点で国道463号線を右折して直ぐ、歩道橋の手前を左折して旧道に入る。旧道を暫く(900m程)進み、右手の路地を入って行くと諏訪神社がある。屋根瓦を敷いた鳥居の前には、たくさんの庚申塔が安置されている。
諏訪神社から暫く(1㎞程)進むと左側に赤い鳥居があり、古墳の上には小さな社と石室がある。
直径27(復元32)m、高さ5mの円墳。1923年(大正12年)に墳丘の一部が崩壊して石室と遺物(金環・直刀など)が発見されている。
浅間山古墳の向かいには中山道碑がある。

泪橋の由来碑 庚申塔群 金久保神社 陽雲寺
浅間山古墳の直ぐ先右手の民家の角に石碑が建っている。
徳川幕府は、大名諸役等通行の際に伝馬なる苦役を課したため、街道筋の農民は、この地に架かる橋の上で家族を偲び身の上の儚さを嘆じて泪を流したという。
神保原1丁目で右折し、国道17号線を横断して進んで行くと、関東フローズン株式会社の向かい側に庚申塔などがまとめて安置されている
正面の小屋掛けには如意輪観音像と思われる石像、手前には、二十二夜塔、庚申供養塔などが並んでいる。関東フローズン株式会社の敷地にも庚申塔がある。
庚申塔群からやや先の右手には、金窪の八幡神社(金久保神社)がある。金久保神社は大永5年(1525)金窪城主斎藤盛光が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まるという。
鳥居を潜ると右手に改修したときの古い屋根瓦が保存されている。神社の先に 「史跡金窪城阯入口」 という標柱が立っている。
金久保神社から程なく左側に陽雲寺がある。陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久二年(1205)の創建と伝えられ、広大な寺域がある。甲斐武田家滅亡後、信玄の夫人陽雲院が仏門に入り、ここで生涯を閉じたと云う。
境内には県指定文化財となっている元禄銘のある銅鐘や、
県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能の供養塔などがある。

石祠と石灯籠 庚申塔 勝場の一里塚跡 神流(かんな)川
陽雲寺の西の出入り口の前で、街道の右手に石の祠があり、脇に石灯籠が建っている。
この脇には、愛宕神社の石碑と畑時能公首塚の石碑が建っている。
石祠と石燈籠から100m程先の賀美公民館前に中山道案内板があり、その直ぐ先右手に慰霊之塔が建っている。その先で上里町立賀美小学校を過ぎると、国道17号線の手前の右手に庚申塔が四基建っている。大きな文字庚申塔と一面六臂の青面金剛の庚申塔などである。 庚申塔から程なく勅使河原(北)交差点の手前に勅使河原阿弥陀堂があり、その脇に一里塚跡がある。
ここは勝場の一里塚跡で、江戸日本橋から数えて23里目である。
神流川に架かる神流橋を渡って群馬県に入る。当時の武州(武蔵国)と上州(上野国)の国境である。橋の両袂には見通灯篭のレプリカが建っている。往時は勅使河原の渡しと呼ばれ、徒歩渡しだったが、後に平水時は仮橋、満水時は舟渡しとなった。

神流川古戦場跡 見通灯篭と道標 八坂神社 諏訪神社
神流橋の渡詰め右側に神流川古戦場跡の碑が建っている。天正10年(1582)6月16日から19日にかけて、織田信長が本能寺の変で倒れた直後、仇を討たんと志す滝川一益の1万8千の軍と機に乗じて攻め入ってきた北条氏直・氏邦の5万の軍勢が、この地で激突した。初日は滝川方が勝利するが、3日目は戦死3,760人の大敗を喫した。敗れた一益は6月27日の清洲会議に出席出来ず、織田家における一益の地位は急落した。 陸上自衛隊新町駐屯地の前の分岐から新町宿である。この分岐には見通灯篭再建之碑があり、文化7年(1810年)5月11日、一茶が川留で新町の旅籠高瀬屋五兵衛に宿泊していると、神流川岸に建てる石灯籠の寄進を強要され、12文を寄進した等々刻まれている。
脇には道標の石柱が建っており、「従是 左江戸二十四里 右碓氷峠 十一里」 と刻まれている。写真の右手が旧道である。
見通灯篭の先の交差点右側に八坂神社がある。昔、このあたりに柳の大木があり、側の茶屋を柳茶屋といった。新町宿の俳人小渕湛水・苗木白水らが柳にちなむ芭蕉の俳句を撰して天保10年(1725)頃句碑を建てた。
句碑には、「傘におしわけ見たる柳かな」 と刻まれている。
八坂神社から程なく新町東コミュニティセンターの向かいに諏訪神社がある。
境内には、元禄15年(1702)の銘のある石鳥居や享和元年(1801)頃造られた御輿が保存されている。また、正月と春、秋には、安政3年(1856)より伝承されている獅子舞が毎年奉納される。この他、いくつかの境内社、石祠などがある。

専福寺 浄泉寺 明治天皇新町行在所 宝勝寺
諏訪神社に隣接して専福寺がある。
専福寺は、万治3年(1660)仏雅房賢宗が開山した真言宗智山派の寺院であり、京都・智積院を本山とし、本尊「不動明王」を祀っている。
境内には、推定樹齢300年以上のクス・カヤの木、庚申塔、六地蔵などがある。
専福寺の隣には、浄泉寺がある。
浄泉寺は、天正2年(1574)開山の浄土宗の寺院である。
境内には、推定樹齢400年・樹高25㍍・幹周5.2㍍で高崎市天然記念物に指定されているイチョウの木があり、墓地の前には、石仏、庚申塔、二十二夜塔などがある。本堂の前には、かわいい小坊主が木魚を枕にしている。
浄泉寺の先の二つ目の交差点角に公園があり、奥の方に明治天皇新町行在所がある。
明治天皇は明治11年8月から11月にかけ、北陸、東海地域の巡幸を行った。途中の9月2日に新町に宿泊した時の施設である。
当時は木造瓦葺きの平屋と付属家2棟で、街道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲っていた。
新町駅入口交差点を越えて左側に宝勝寺がある。
門の脇の石碑には、[落合山宝勝寺] という文字が見えるが、真言宗豊山派の寺院で落合山宝勝寺・高尾山宝勝寺と山号が二つ付く。天文11年(1542)の開山である。
境内には、欅造りの立派な鐘楼門や六地蔵、百度供養塔、馬頭観音などがある。

小林本陣跡 弁財天 伊勢島神社 川端家
宝勝寺の先の民家の塀の前に小林本陣跡の標柱が建っている。
この辺りが新町宿の中心であった。もう一軒の久保本陣は向かい側にあったというが、何の表示もない。
小林本陣跡の直ぐ先に温井川が流れており、弁天橋が架けられている。弁天橋の袂に赤い鳥居の弁財天がある。
昔は温井川の中ノ島であったというが、治水の関係で現在地に祭られている。社は天明3年5月に建立された石の祠である。境内には、芭蕉句碑があり、当時は清水が湧いていたことから 「むすぶよりはや歯にひびく泉かな」と刻まれている。
弁天橋を渡るとY字分岐となるので右の旧道を入って行く。程なく右手に伊勢島神社がある。参道口の常夜燈は天保5年(1834)の建立、境内には道祖神、庚申塔等の石塔群が集められている。
元々が稲荷神社のためか、社の脇には狛犬の代わりに狐が置かれている。
伊勢島神社の直ぐ先右手に白壁の塀や土蔵のある立派な民家がある。
江戸時代の豪農川端家であり、豪壮な建物は登録有形文化財である。

信迎庵 土手道 烏川 北向子育観音
川端家の直ぐ先の火の見櫓の脇に沢山の石塔群が祀られている信迎庵がある。
上部が地蔵尊で下部に橋建立供養塔と刻まれた石塔、百観音永代常夜燈、三界萬霊塔、六地蔵などがある。
信迎庵を過ぎると関越自動車道の下を通り、やがて土手道を歩くことになる。
右手に烏川スポーツ広場、左手に三菱鉛筆群馬工場があり、烏川に架かる柳瀬橋に出る。
柳瀬橋を渡って烏川下流を望む。かつては、下流域に柳瀬の渡しがあった。 柳瀬橋を渡って右手の土手を進んでいくと、水位調整施設付近が向こう岸からの渡し場になる。ここから土手を下りて旧道に入る。
岩鼻町交差点の手前左側に北向子育観音がある。かなりの年代を経た御堂と思われるが、境内には由緒等の説明版は無い。この日は、暑かったので木陰で暫し休憩をとった。

観音寺 道標 石碑 閻魔堂
岩鼻町交差点の先右手に高野山真言宗の福聚山観音寺がある。境内には初代岩鼻代官の吉川栄左衛門の墓や岩鼻刑場にあった 「南無阿弥陀仏」 と刻まれた刑場供養塔、六地蔵尊、庚申塔などがある。 観音寺の先はY字分岐になっており、旧道は左に入るが、250~60m程先で合流する。その先で国道17号線を横ぎり、JR高崎線を越えると右手にメッセ高崎店があり、その街道沿いに木柱道標がある。
道標には、「←倉賀野宿0.5㎞、新町宿0.7㎞→」 と記されている。
道標の先でY字分岐となるので、KANTO ROCK WOOLのところを左に入り、すぐ先のY字路を右に行くと馬頭観音、石碑、灯篭がある。 石碑から100m程先で中山道と例幣使街道の交差点に閻魔堂が建っている。
この建物は、正式には阿弥陀堂というが、明治初年に建て替えられて、阿弥陀の代わりに閻魔像を置いたので、閻魔堂と呼ばれている。閻魔堂の裏には、庚申塔、石像などがある。

常夜燈と道標 街並み 本陣跡碑 中町御伝馬人馬継立場跡
閻魔堂の前には、常夜燈と道標が建っている。説明書きによれば、常夜燈は道標の役目も果たし、文化11年(1814)に上野国那波群五科の高橋光賢という人が自己の財産を投げ出して建立した。道標には、「従是 右江戸道 左日光道」 と赤字で彫られており、ここから例幣使道が始まる。江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されており、これを日光例幣使という。 倉賀野宿は、江戸から数えて12番目の宿場である。
当時の倉賀野は、烏川などを利用した水運の川岸舟場として栄え、料理屋や遊郭などもあり、賑わった。例幣使街道口から150~60m先の右手民家前に皇太子殿下御誕生記念碑がある。
中町交差点の先、左側のスーパーペイシアの前に本陣跡の石碑が建っている。倉賀野宿には、本陣1軒、脇本陣2軒が置かれていた。本陣跡碑の手前には、倉賀野宿碑と双体道祖神が建っている。 スーパーペイシアの先、倉賀野駅前交差点に倉賀野仲町山車倉という建物があり、その前に中町御伝馬人馬継立場跡碑が建っている。
本日はここで終了し、最寄りの倉賀野駅から帰ることとした。

平成26年6月30日(月) ☁|☀  倉賀野~安中   15.6㎞
毎日安定しない天気で、突然の激しい雷雨があったりするので見合わせていたが、今日は雨が降っても夕刻から短時間という予報だったので、折りたたみ傘をリュックに入れて出発することとした。5時に自宅を出て、倉賀野に着いたのが7時40分、駅を出て街道に出るまでに九品寺があったので寄って行く。

九品寺 脇本陣跡 高札場 倉賀野神社
九品寺は、浄土宗の寺院で延徳3年(1491)玄誉上人が開山、倉賀野城主倉賀野五郎行信の開基である。京都知恩院の末寺で山号を一行山光明院という。高崎市指定文化財に指定された秘仏「善光寺三尊像」が祀られており、巳年の年に御開帳となる。
山門左手前に六地蔵尊が立ち、山門をくぐると右手に鐘楼がある。駐車場奥には、旧本堂の鬼瓦などで「モニュメント」が造られている。
倉賀野駅入口交差点の先右手に須賀脇本陣跡がある。
須賀家の表札が掛かる建物は、旅籠風の造りになっている。
脇本陣の直ぐ先右手に高札場跡がある。この裏手に樅の木の伝説の案内板と樅の木がある。安政2年(1855)に倉賀野宿は大火に見舞われ、焼け野原の化したが、只1軒焼け残った旧家があった。どこからか大天狗が現れ防火に努めたいう。この旧家では、毎年「初幟」を立てのだが、いつの間にか古峰神社に納まっていたという。古木の樅の木は植替えられて現在に至るという。 上町交差点の先、左側に倉賀野神社の社標があり、100mほど入ると倉賀野神社がある。倉賀野で一番大きな神社で、第十代崇神天皇48年、または大同2年(807)に創始と伝えられ、倉賀野宿と近隣の七ヶ郷の総鎮守である。
本殿は元治2年(1865)上棟で、高崎市の重要文化財に指定されている。境内には、文久3年の常夜燈、御神田、たくさんの境内社、庚申塔群、神輿蔵などがある。

安楽寺 松並木 浅間山古墳 お地蔵様
倉賀野神社の先右手に木製道標があるが、この辺りが倉賀野宿の西口(京口)である。この道標のところに天台宗の安楽寺がある。
山門右手に馬頭観音があり、境内には、庚申供養塔、常夜燈、二十二夜堂、勝軍地蔵尊、異形板碑、そして本堂裏手には、安楽寺古墳があり、石室壁面に鎌倉時代の作製と推定される仏像が7体彫られている。
倉賀野宿を出ると上町西交差点から水路が続き、その脇に最近植えたと思われる松並木がある。
松並木が続く街道の左側に浅間山古墳がある。遠くから眺めるだけにして先に進んだ。浅間山古墳は、墳丘全長171.5mの前方後円墳で、発掘調査では円筒埴輪の破片などが出土している。 浅間山古墳を過ぎると、右手にお地蔵様が建っている。ここは倉賀野町が建てた交通事故犠牲者供養塔である。

道標 イチョウ並木 愛宕神社 興禅寺
お地蔵様の直ぐ先、左側にだるま弁当の高崎弁当株式会社があり、その先の佐野小学校入口バス停に木製道標が建っている。
道標には、「←高崎宿1.5㎞、倉賀野宿1.8㎞→」 と記されている。
国道17号線倉賀野バイパスの下を通り過ぎると、あと500mで高崎宿に入る。旧道の両側には、イチョウ並木が続く。ところどころにアジサイも咲いていて、ほっとする街並みである。 上越新幹線、上信電鉄線を越えて、南町交差点を左折すると愛宕神社がある。愛宕神社は、和田城(後の高崎城)の鎮守神として和田六郎兵衛義信が、京都市嵯峨の愛宕神社の御分霊を祭祀創建したという。
後に元和3年(1617)に高崎城主松平安房守信吉により再建され、火防の神として崇敬されたという。境内の裏手には、小さな社が2つ並んでいる。手前には、厳島弁財天がある。
街道に戻って進むと新田町交差点左側に曹洞宗の興禅寺がある。興禅寺は、高崎市内では一番古いお寺で、新田義重を開祖として、治承元年(1177)に建立されたという。
正門は閉ざされているが、脇に延宝6年の菩薩像が建っている。脇門から入ってみると、六地蔵尊、み足跡、庚申塔などがある。

延養寺 諏訪神社 城址公園 連雀町由来碑
興禅寺の先、右側に赤い山門の延養寺がある。山門の左右には、庚申塔、供養塔、仏像がある。
延養寺は、高野山金剛峰寺を総本山とする高野山真言宗のお寺である。
境内には、形の異なる地蔵尊・南無阿弥陀仏名号碑が六地蔵尊のように並んで安置されている。
街道に戻ると、あら町交差点左側に変わった造りの諏訪神社がある。
本殿は、土蔵のような外観を持つ総漆喰の塗籠造りで、しばしば大火に見舞われたことから、大切な社を火災から守るための工夫だったという。
諏訪神社前を西に進むと高崎市役所があるが、その手前は城址公園になっており、当時の堀の一部や復元された東門などが残っている。公園の周囲には、ハープのモニュメントや北村西望作製の少年像 「将軍の孫」 が建っている 街道に戻って進むと、連雀町交差点の先、左側に連雀町の由来碑が設置されている。説明によると、連雀町は、行商人が各地から蘞著 (たんじゃく=荷物を背負う道具で連尺とも書く) で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を蘞著町と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられている。

中山道街道絵巻 旧山源漆器店 學法寺 高崎神社
高崎市市営中央駐車場の前に中山道宿場絵巻が設置されている。
新町、倉賀野、高崎、板鼻、安中、松井田、坂本の各宿場風景が描かれている。
本町三丁目交差点を左折すると左手に重厚な建物の山田家が建っている。
この山田家は、通りに面した店蔵は、熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に設けらた軸吊り形式の観音開き扉、そして漆喰で仕上げ、更に黒く塗られた外壁等、重厚感を持った造りになっている。
350~60m程先の本町一丁目交差点を左折すると、高崎神社のほぼ向かい側に浄土真宗本願寺派の學法寺がある。
小さなお寺だが立派な鐘楼が建っている。
學法寺向かい側の高崎神社は、高崎の総鎮守であり、上野国和田城主であった和田小太郎正信が、相模国三浦郡の熊野権現を城中に勧請し、「熊野神社」 と号したのが創建とされる。
その後、慶長3年(1598)井伊直政が高崎城改築の際、遷座した。境内社として美保大国神社、五社稲荷大神がある。

恵徳寺 長松寺 岡醤油醸造㈱ 山田文庫
高崎神社の裏手に恵徳寺がある。
恵徳寺は、天正年間(1573~1592)に井伊直政公の伯母となる恵徳院宗貞尼菩提の為に創立され、松隆山恵徳院と号された後、慶長3年(1598)直政公が和田城入城の折に松隆山東向院恵徳寺と改め、慶長9年(1604)現在の地 「赤坂」 に移った。
境内には、十一面観世音、六地蔵尊、生類之霊供養塔、無縁仏供養塔がある。
恵徳寺の向かい側に長松寺がある。
三代将軍家光の弟忠長は家光との確執により父秀忠の死後高崎城内に幽閉され寛永10年(1623)28歳で自刃して果てた。この自刃した部屋が長松寺に移設されている。
長松寺の大間、向拝天井絵及び涅槃画像は、高崎市指定重要文化財となっている。
長松寺の裏には、得利稲荷神社がある。
長松寺から坂を下ったところに煉瓦造りの煙突の立つ岡醤油醸造㈱がある。
天明7年(1787)近江商人 初代 岡忠兵衛が、足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に 「河内屋」 の屋号を掲げ、醤油醸造業を営んだのが始まりで、明治30年(1897)四代・宗一郎氏が常盤町の旧中山道沿いに支店を開設した。
岡醤油醸造㈱の向かい側にレンガ塀の山田文庫がある。今日は月曜日なので、休館日であった。
敷地内には、昔ながらの日本家屋を改装した木造の和風図書館、貴重な文化財であるという茶室、書庫として使われている土蔵などがある。

常仙寺 正一位稲荷大明神 君が代橋親柱 君が代橋
山田文庫を右折して暫く進むと右手の高台に曹洞宗並榎山常仙寺がある。
常仙寺は、寛永5年(1628)徳川家光の時代に、水運業を営む飯塚常仙 (光徳院心徹常仙居士) が藤岡市森の泉通寺の四世である松齢恕嶽大和尚を開山として創建したという。
山門を入ると左手に女性の安産を守護する二十二夜様と言われる如意輪観音が祀られており、さらに右手に眼病を治すとされる薬師如来(通称目薬師)が祀られている。
常仙寺のほぼ向かい側、街道沿いに正一位稲荷大明神がある。
「正一位稲荷大明神」 の称号は、伏見稲荷の祭神を 「稲荷勧請」 によって、各地方稲荷社に迎え祀ることである
正一位稲荷大明神の先で君が代橋に突き当たる。橋の手前に、明治11年(1878)明治天皇が北陸東海行幸の時、馬車で木橋を渡られたことを記念して命名された 「君が代橋」 の親柱が保存されている。
昭和52年にインターチェンジ建設の折、掛け替えられた鉄橋の親柱である。
君が代橋親柱の手前で歩行者自転車専用レーンに入り、君が代橋の左側歩道を通行していく。昨夜の雨のせいか烏川の水量はかなり多かった。

萬日堂 石神社 自然石の道標 八坂神社
橋を渡り切り、歩道左の歩行者専用階段を下り、その先から地下道に入り、君が代橋下を横断すると目の前に萬日堂がある。
萬日堂の本尊はみかえり阿弥陀像で、寄木桧造りである。昔、永観律師が不断念仏を思い立ち、本尊をめぐって行道念仏をしていたが、つい眠くなって立ち止まったところ、本尊が 「永観遅いぞ」 と後ろを振り返って声をかけたという。
萬日堂の入り口には鳥酔の句碑がある。
君が代橋西交差点を右折して直ぐ右側に小さな社の石神社がある。
境内には、道祖神がある。
下豊岡町西交差点の先200m程でY字分岐となる。旧道は左側に入るが、Y字路中央に自然石の道標が建っている。
道標には、「右 はるなみち くさつみち」 と刻まれている。
直ぐ傍らには、木柱の道標もあり、板鼻宿4.5㎞ 高崎宿1.6㎞と読める。
Y字分岐の直ぐ先に八坂神社がある。
本来の分岐は、この八坂神社のある場所であり、自然石の道標も元はこの場所にあったものである。神社の前に建つ道標は、下豊岡の道しるべと言われ、安山岩で造られた尖塔角柱の道標である。道標正面には 「榛名山 草津温泉 かわなか かわらゆ はとのゆ 温泉」 と彫られている。左右側面は、宿名や距離が彫られている。

若宮八幡宮 常安寺 神明社 庚申塔
豊岡市立豊岡小学校の斜め向かい側に若宮八幡宮がある。
鳥居の奥に朱塗りの随身門がある。この神社は、平安末期、永承6年(1051)源頼義・義家父子が建立した伝えられている。
江戸末期には、江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大将が参拝に訪れたという。
若宮神社の向かい側に長い参道の常安寺がある。参道途中には、二十三夜塔、庚申塔があり、山門脇には、左右に仏像が建ち、山門を入ると左手に六地蔵尊、その隣に常安十八世租眼弘道禅師の供養塔がある。
本堂脇には、右に地蔵菩薩像、左に阿弥陀如来像がある。
常安寺を過ぎると程なく右側に神明社がある。
神明社を過ぎると飯野石材店の先、左角に庚申塔が建っている。
裏面に寛政元年(1789)と刻まれている。

上豊岡の茶屋本陣 金ヶ埼不動尊 馬頭観音 浅間神社
庚申塔のやや先に土蔵と門構えの家があり、土蔵の手前に上豊岡の茶屋本陣と標識がある。ここは、茶屋本陣を勤めた飯野家である。
幕末に皇女和宮は、降嫁の際ここで休息をしている。建物内は一般公開されているが、月曜日・火曜日は休館日であり、本日は月曜日のため入館出来なかった。
先に進むと国道18号線にぶつかる手前に一見何の変哲もない小屋が建っている。この建物は金ケ崎不動尊で、回り込んでみると街道と反対側に拝殿口がある。
境内には、文政6年(1823)の庚申塔と明和元年(1764)の道祖神がある。
上豊岡町交差点の旧道沿いの車整備工場の前に馬頭観音が建っている。 馬頭観音の直ぐ先、右側に浅間神社がある。境内には、半分埋もれた庚申塔、石祠の天神社がある。
この向かい側が藤塚の一里塚で、標柱が建っているのが分かるが、国道18号線を横切れないので先に進み、レンタルBOXのところで横断歩道を渡って旧道に復帰した。結局、藤塚の一里塚跡に寄らずに先に進んだ。

だるま工場 八幡宮鳥居 橋供養塔 分岐
碓氷川の土手を通っていくと国道18号線沿いにだるま工場の大門屋が見え、工場脇には赤く塗られる前のだるまがいっぱい干されている。碓氷川は、これまでの雨のためか、かなり増水している。 碓氷川の土手を八幡大門交差点で下りると右手に大きな鳥居が建っている。
上野国一社八幡宮の大鳥居である。八幡宮は600m先とあるので、鳥居で拝んで先に行くこととした。
鳥居の右手前には、常夜燈、杉並木を偲ぶ碑、奉納碑などが建っている。
豊永自動車販売㈱の手前に小川があり、ここに橋供養の石柱が建っている。
傍らに文字が消えかけた案内板があり、板鼻宿の念仏講中が寒念仏供養で得た報謝金によって石橋を改修したものを、 その後破損したため享和二(1802)年、木嶋七郎左衛門がさらに改修し、その近くに供養記念塔を建てたとある。
正面には、「坂東、秩父、西国 橋供養」 と刻まれている。
板鼻下町交差点でY分岐を右に行って直ぐ、次のY字分岐を左に進んでいく。
この分岐には、金井方平翁頌徳碑、板鼻土地改良記念碑が建っている

傍らに、板鼻宿0.5㎞、高崎宿5.6㎞の道標が立っている。

道祖神 庚申塔 道標 街並み
分岐から程なく板鼻川を渡ると右手民家の前に道祖神が安置されている。
奥の小さいものは天満宮と刻まれ、中央の双体道祖神は男性が杯を持ち、女性がひょうたんを持っている。手前のものは表面が欠けているが享保と刻まれている。
道祖神の直ぐ先、右手の入沢製作所の脇に庚申塔と地蔵尊がある。
庚申塔の脇には、享保16年(1731)の小さな寒念仏供養塔がある。
庚申塔から180m程先でJR信越本線を第九中山道踏切で越えて板鼻宿に入る。踏切を越えて直ぐの板鼻二丁目交差点右手角に小さな道標が建っている。
正面は、上野国一宮八幡宮への 「やはたみち」 と刻まれ、右には 「はるな、くさつ、河原湯、かねこ、沢たり、志ぶ川、みち」 と刻まれ、左には 「文政十三年」 と刻まれている。交差点を渡ったところには、木柱道標が建っている。
板鼻宿交差点の手前の民家だが、旅籠風の造りになっている。
この直ぐ手前の御食事処 「板鼻館」 の前には火の用心と書かれた手押しポンプが保存されている。

木島本陣跡 聞名寺 八坂神社 大乗院
安中市板鼻公民館前に板鼻宿碑と本陣跡の木柱が建っている。
本陣跡から直ぐ右手奥に聞名寺の山門が見えるので寄ってみることにした。
聞名寺には、弘安3年(1280) に当寺を創建した一遍上人が什宝として残した笈がある.。現在日本に残存する三個のうちの一つで、高さ約39cm、幅39.5cm、奥行き27cmの大きさである。境内には、一面六臂の青面金剛の庚申塔などがある。
街道に戻って進むと、左手のいたはな公園の街道を挟んだ向かい側の空き地に石碑が3つ建っている。奥には、八坂神社神輿収納庫と書かれた小屋がある。
3つの石碑は、青面金剛と刻まれた庚申塔、猿田彦大神と刻まれた丸石、男女双体道祖神である。
街道の右手の南窓寺へ行く途中に小さな御堂があり、真言宗大乗院と書かれている。
僅かなスペースに建っていて、階段脇には庚申塔、境内には文久2年(1862)の常夜燈、文政2年(1819)の石祠がある。

南窓寺 板鼻堰 鷹巣神社 鷹ノ巣橋
南窓寺は、曹洞宗の寺院である。大乗院の先で県道17号線を横切って階段を上って行く。南窓寺には、伊能忠敬と全国を測定して回った和算家・小野良佐栄重の墓がある。
寛政9年(1797)には板鼻に戻り和算塾を開き、多くの弟子を育て、その門弟たちが上毛に和算の隆盛をもたらしたと評されている。
県道171号線と旧街道の間に水が満々流れる板鼻堰がある。
板鼻堰は、板鼻地区から始まる全長約15キロの用水路のことで、農業用水路として今から約400年前に造られた。板鼻の宿場の町中をとおる板鼻堰は現在でも情緒溢れる風景をみせている。
板鼻宿を出るところに鷹巣神社の石柱と依田六郎城址?の石柱が建っており、脇には石灯籠、御神燈碑、聖徳太子塔などがあり、その奥に石橋が架けられている。ここから左手山奥に鷹之巣神社があり、県道171号線ができる前は登り口だったようである。石灯籠は寛政3年(1791)、御神燈碑には文化8年(1811)と刻まれている。 碓氷川に架かる鷹ノ巣橋で碓氷川を渡ると中宿である。碓氷川は、群馬県と長野県の境に位置する碓氷峠に源を発し、下流で烏川に合流している。

諏訪神社 大河原家 庚申塔道標 道標
鷹ノ巣橋を渡りきったところの十字路が中宿交差点であり、この左角に諏訪神社がある。
境内には、明治天皇御小休所腰掛石、庚申塔、御嶽山座王大権現、4基の石祠がある。
平成25年に新たに建てられた公民館に家歴400年を有する大河原家の土蔵が保存されている。 中宿のほぼ中央の十字路で藤野屋商店の斜向かいに庚申塔道標が建っている。
正面に 「庚申塔」、左側面に 「従是 一宮大日 街道」、右側面に 「享和2年(1802)」 と刻まれている。
旧道が碓氷川土手に突き当たるとlころに木柱の道標が立っている。
この向かい側には道祖神が2つ並んでおり、先には三面八臂の馬頭観音がある。土手に上がってみると上流に安中宿に入る久芳橋が見える。本日はここまでとして道標を左に折れ、安中駅から帰ることとした。駅の向こう側には東邦亜鉛安中製錬所が見える。

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