ツバキの園芸品種の作出は室町時代に始まり、江戸時代初期には関東では江戸ツバキと呼ばれる 「卜伴種」、関西では京ツバキと呼ばれる 「日光種」
が作出された。
この 「日光種」 が関東の西廣寺にあるのは実に珍しいことである。
西廣寺のツバキは、「ケンツバキ」、「ユキツバキ」 と呼ばれ、花は真紅の一重唐子咲きで、花弁は5~7枚、花形は優雅で美しいばかりでなく、園芸品種の系統の経路を研究するのに貴重な資料である。
樹齢推定300年。
(安中市教育委員会)
太山融斎は、現在の茨城県稲敷郡美浦村安中に生まれ、江戸で町儒者をしているところを1838年に安中藩主板倉勝明に召し出された。
以後、安中藩の文教政策の中心となって活躍、1852年に地球儀を制作するなど西洋事情にも通じ、詩や書にも優れていた。「小学入門」 等の著述がある。
(安中市教育委員会)
柏木義圓は、安政7年(1860)3月9日に越後国三島郡与板の西光寺に生まれた。
明治10年(1877)に東京師範学校を卒業し、明治11年に碓氷郡土塩村小学校に着任した。明治12年土塩・新井・上増田三村連合で細野西小学校を創設したとき、その初代校長に就任した。この村の官選村長萩原洲年は安中教会の執事で、萩原村長を通してキリスト教に触れ、新島襄を敬慕するようになった。明治13年に同志社に入学したが、休学して上州に帰り明治15年に国衙村の細野東小学校の校長に就任した。明治17年に同志社に復学し、明治22年6月に同志社普通学課を卒業した。卒業と同時に同志社予備校の主任に迎えられた。
明治25年に平瀬かや子と結婚し、室町に新居を構えた。また、「同志社文学」 の編集者としても活躍した。明治30年4月、同志社を去り、湯浅治郎の招きに応じて安中教会第4代牧師に就任した。翌年に 「上毛教界月報」 を創刊し、県下のキリスト教界の情報を伝えると共に、神の福音、キリスト教に基づく自由と平和を説き、昭和11年まで刊行し続けた。
この間、新島襄先生召天30周年を記念して、大正8年に新島襄記念会堂(安中基督教会礼拝堂)が新築された。柏木義圓は、昭和13年(1938)1月8日に永眠したが、大正7年に亡くなったかや子夫人と共に、この墓地に葬られている。
(安中市教育委員会)
太山融齊の墓
西廣寺本堂
西廣寺山門
南無阿弥陀仏名号塔
西光寺のツバキ(県指定天然記念物)
柏木義圓の墓