恋愛事件?
講談師「円生」が実地調査の上に創作を加えた「後開榛名の梅が香」によるものです。
1.安中草三郎とは
 信州出身、茨城県土浦で剣術修行、師範の「殺し」の罪をかぶり受牢。
 しかし、牢を破り上州安中で饅頭商として身を隠す。
2.安中での出来ごと
 草三郎が信州にいると聞いて、妻の「歌」は信州に向う途中の上州安中で、饅頭屋「丸太屋」から饅頭を仕入れて行商をしている草三郎と出会い生活を始める。草三郎が美男子であったことから、安中藩の家老である尾崎直右衛門の娘「おきわ」が草三郎に恋慕し、尾崎直右衛門は草三郎が妻「歌」を離縁し、娘「おきわ」と夫婦になる話をするが、自分には愛する妻「歌」がいるとしてこの話を断わる。しかし、「おきわ」の恋慕は止まらない。熊野権現の祭礼の日、お参りに来た「歌」が「おきわ」のお兄「直之進」の紋服に泥をつけてしまう。これに乗じて「おきわ」の父、直右衛門は草三郎に対し、わびとして「歌」の首を切れと言う。草三郎は家に帰りこの旨を「歌」に言うと「歌」は涙を流して自分の首を切ってくれと言う。草三郎は「歌」の首を切り家老尾崎に持参する。尾崎は本当に「歌」の首を持参した草三郎に大いに驚き「おきわ」も大いに懺悔する。草三郎は「おきわ」に懺悔の気があるなら出家して「歌」の霊を弔ってほしいと話す。これにより「おきわ」は髪を下し尼僧となり、名を「照念尼」と改め、下の尻に観音堂を建ててここに住まいとする。「歌」の遺骸は東光院に埋葬される。
 その後、草三郎は江戸へと逃亡生活を続ける。途中で母親と会うことも出来たが、江戸吉原で終に捕縛され処刑される。
3.草三郎は実在したか
 東光院には「歌」の小さな墓が有ります。東光院の東の下の尻地区には「観音堂」がありますが、この観音堂は草三郎に恋慕し、悲恋に終わった安中藩家老の娘「おきわ」(後の照念尼)が出家し、この観音堂を建立してここに住んだと言われているものです。観音堂があることから、家老尾崎の娘「おきわ」にまつわる恋愛事件ともいうべきものがあったと推測できます。
 その相手が草三郎か否かは不明ですが・・・。
 また、「おきわ」の兄直之進の着物を汚した舞台となっている熊野権現は東光院の西隣にある熊野神社のことだと思われます。この熊野神社は安中市の主神社です。また旧安中城の武家屋敷地区内には尾崎家が残っています。また「丸太屋」という菓子店も現在あります。
 円生の創作によるところが大きいものの「観音堂」があり、小さいながらも「歌の墓」があることを前提に推測すると(いかに講壇が人気があったとは言え)貧乏寺が実在しない「歌」の墓を保持するとは考えにくく、「おきわ」や「歌」を当事者とする何らかの恋愛絡みの事件が実在したと考えられます。

青銅製の地蔵菩薩半跏像(延命地蔵尊)

安政6年(1859)の地蔵菩薩半跏像の供養塔

安中草三郎説明

本堂前の水盤

東光院本堂

本堂に掛かる十輪山の扁額

仁王像が立つ山門

如意輪観世音が祀られた観音堂

観音堂の扁額