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東海道   (島田~掛川)


平成28年5月4日(水) ☀|☁  島田~掛川  18.1㎞
本日は、島田宿から大井川を渡り、金谷宿の先で旧東海道石畳の金谷坂を登り、菊川から一気に登る茶畑の続く坂道を上がって小夜の中山を経て、日坂宿を通り掛川宿に入って行く。今回の行程の中では途中の寄り道を考慮すると24㎞程で最も長い距離になる。

旧道口 塚本家 島田市博物館分館 仲間の井戸
昨日の続きで徳種東海製紙㈱の先を進むとY字路があり、左に大井川川越遺跡の道路標識がある。
旧道の手前に東海道道標島田宿があり、ここを左に進んで行く。
街道を進んで行くと川越業を行った集落が続いている。
街道右手には、九州肥前(長崎)で古い家柄を持つ大名大村藩によって建てられた塚本家がある。塚本家は、大村藩や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が大井川を渡る時、特別の便宜を図り、川越しの準備や手続きを代行した。その間大名を座敷の上段の間において接待した。
口取宿と呼ばれる定年を越えた川越し人足が詰める建物などを過ぎると、右手に島田市博物館分館がある。
この建物は明治23年(1890)に建てられた旧桜井邸で、樹齢約300年といわれるマキの巨木や日本庭園がある。
島田市博物館分館の前の六番宿の角に仲間の井戸の立札があり、脇を奥に進むと建屋の中に釣瓶井戸がある。

秋葉神社 三番宿 関川庵 札場
仲間の井戸の直ぐ先に秋葉神社がある。
ここには川会所などの建物の案内絵図がある。
秋葉神社の隣に三番宿がある。
番宿とは川越人足がふだん詰めていた待機所であり、川越人足は10組に分けられ各組が一つの番宿に詰めていた。各番宿には連台5丁が備えられ、川越は各組が輪番制で当たったが、当番でない組の人足もそれぞれの番宿で50人ほど待機していた。この先は荷縄屋、十番宿、二番宿、仲間の宿と続いている。
仲間の宿の斜向かいに関川庵の標柱が有り、その奥を進んで行くと関川庵の御堂がある。
境内には、八百屋お七の恋人の吉三郎の墓、六地蔵尊、馬頭観音などの石造物がある。
関川庵標柱の隣に川会所跡があり、その向かいに札場がある。一日の川越しが終了した後、それぞれの番宿で 「陸取り」 という世話人が、川越人足たちから川札を集めて札場で現金に換えた。
換金する際は、当日の川越賃銭から二割が差し引かれ、川庄屋、年行事などの給金や川会所その他の番宿の修繕費等に充てたり、島田宿運営の財源の一つとして使われた。

川会所(復元) 島田大堤 八重枠稲荷神社 せぎ跡
川会所跡の西側に川会所が復元整備されている。
川会所は、川越しの料金を決めたり、川札を売った所で、元禄9年(1696)に川越制度が確立されてから、川役人が川越業務を行なってきた建物である。現存する建物は安政3年(1856)に建てられたもので、昭和45年(1970)に復元された。ここには川庄屋と年行寺が再現され、当時の連台が保存されている。
川会所(復元)の隣に島田大堤が大井川橋方向に向かって延びている。
島田大堤は、慶長4年(1599)の慶長の大洪水により、これまでの川除堤が決壊したのを受けて、正保元年(1644)頃までに整備された。大堤の規模は、高さ約3.6mで向谷水門から道悦島村境までの長さ5.733mであった。
街道右手に八重枠稲荷神社がある。
八重枠稲荷神社は、宝暦10年(1760)に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立された。昔、ここには大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて、激流から村を守ったことから、「八重枠稲荷」 の名前が付いたという。
建物が途切れるところの両側に 「せぎ跡」 があり、増水した際にはここに板をはめ込んで水の侵入を防いだ。

朝顔の松 島田市博物館 川越広場 大井川橋
せぎ跡の先に朝顔の松公園がある。
ここには浄瑠璃でおなじみの朝顔日記の松がある。盲人の朝顔が島田の宿に泊まり、長年捜し求めてきた愛人(阿曽次郎)に逢ったが、すれ違いとなり、大井川まで追いかけたものの川止めのため死を決するが、戎屋徳右衛門に助けられ、突然両目が見えるようになり、初めて目に見えたのが松だったというくだりである。
御堂の周囲には、田中波月句碑、厳谷小波句碑などがある。
朝顔の松公園の隣に島田市博物館がある。
博物館の庭には、松尾芭蕉が島田宿の俳人・塚本如舟の家に立ち寄った際に詠んだ句碑、勝海舟の像などがある。
大井川の河川敷に川越広場がある。
この広場を歩き回ると色々な石碑があるようだが、
土手から近いところに炭太祇(たん たいぎ)の句碑があった。
土手道を進み大井川に架かる大井川橋 (昭和3年、全長1,026m) を渡っていく。
橋の東側には、静岡県出身の政治家・一木喜徳郎の表題 「永仰景迹」 碑が建っている。

八軒屋橋 水神社 宅円庵 秋葉神社
大井川橋渡り詰めから左手の堤防を通って旧道に出ると新堀川に架かる八軒屋橋がある。
橋の左手は、水神公園になっており義人仲田源蔵の像、東関紀行に載っている作者不詳の「日かずふる旅のあわれは大井川わたらぬ水も深き色かな」 という句碑などがある。
水神公園の奥(南側)に水神社がある。
大井川の水害で亡くなった犠牲者を弔うために建立されたと言われる。
ここには観音堂があり、文政11年(1828)の洪水で八軒屋橋近くに住んでいた修行僧が犠牲となり七番出堤で発見され、近くの住民が水神社脇に観音堂を建てたもので、 「七番の観音さま」 と呼ばれている。
水神社から新堀川を渡った先に宅円庵がある。宅円庵は、慶安4年(1651)宅円大徳上人が開創した浄土宗鎮西派の寺院である。
境内には、日本左衛門(本名浜島庄兵衛)の首塚がある。日本左衛門は、街道筋の諸国を荒らしまわった義賊の頭領である。
街道に戻ると右手に秋葉神社の社殿と石碑が建っている。

往還橋 秋葉神社 西照寺 秋葉神社
秋葉神社の先で大井川本線の踏切を越えて進むと大代川に架かる人道橋の往還橋がある。往還橋の隣には、県道228号線を結ぶ大代橋が並行しており、下流には茶畑が広がる牧之原台地が見える。
往還橋の手前左手の土手脇に三社神社がある。
往還橋を渡ると、続いて清水川に架かる清水橋があり、その手前右手に秋葉神社がある。折しも、こいのぼりが清水川に架けられていた。 清水橋を渡ると右手に真宗大谷派の佛光山西照寺がある。
西照寺は、東本願寺大13世宣如上人の命により元和元和3年(1617)に草創された。
寺宝として安土・桃山時代に活躍した浄土真宗本願寺11世顕如上人を描いた絵図がある。
西照寺の先で街道が県道473号線に合流すると左手に秋葉神社がある。

秋葉神社 大覚寺 山田屋本陣跡 佐塚屋本陣跡
信号十字路を越えて左手の県道230号線を入るとY字路中央に秋葉神社がある。
秋葉神社の右手の坂道登り口に澤井鶴汀出生之地碑が建っているが、澤井鶴汀がいかなる人物か調べてみると、江戸時代後期の儒学者・医者であり、頼山陽の門下四天王のひとりと言われた人物とのことである。
秋葉神社の先の右手山上に曹洞宗の大覚寺がある。
創建年代等は不詳であるが、本堂のガラス戸や水盤に三つ葉葵の紋が入っている。
街道に戻るとやや坂道となり、眼鏡時計のオオツカの前に山田屋本陣跡がある。
元禄から正徳(1688-1715)頃には、本陣は柏屋本陣・佐藤本陣の二軒で山田屋は脇本陣であった。その後、貞享元年(1684)大納言参向のとき、大井川満水を浜松まで飛脚で注進すべきところを怠ったため、宿泊所は山田屋となった。それ以降、山田屋は三番本陣として格上げになった。
山田屋本陣跡の先の佐塚書店前に佐塚屋本陣跡がある。
佐塚家は、参勤交代制度の当初より佐次右衛門の名を継いで金谷宿本陣を務めた。建坪263坪、門構え、玄関付きで、門の屋根には対の鯱が付いていたので 「鯱の御門」 と呼ばれていた。
慶應4年(1868)明治天皇御東幸の際、ここで休憩されている。

柏屋本陣跡 角屋脇本陣跡 利生寺 お七里役所跡
島田市金谷南地域交流センターの前に柏屋本陣跡がある。
柏屋は代々河村八郎左衛門を名乗り 「金谷六人衆」 と呼ばれた名家の一つである。
代々本陣と名主を務めており、表間口は19間5尺、奥行き35間半で、表は街道に面し、奥は沢川まであり、尾張徳川家・紀伊徳川家の定宿となっていた。
㈱金谷タクシーの隣の民家前に角屋脇本陣跡がある。
天保14年~安政6年(1843-59)の 「東海道宿村大概帳」 には三本陣とは別に脇本陣が記録されている。これ以降、金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めた。また、安政年間から明治3年の大井川川越し関係の記録では、代々川庄屋の役職を勤めていた。
角屋脇本陣跡の先の右手路地の奥に遠州観音霊場の得岩山利生寺がある。
利生寺は、天平12年(740)高僧行基発願により、観音菩薩を奉祀したことより始まる。
境内には、岩山観音、八大龍王尊、聞き耳地蔵尊、水掛地蔵尊などの石造物がある。
川崎菓子本店の前にお七里役所跡がある。
これは徳川御三家の一つ紀州家が重要書類の送信のため、七里(約28㎞)毎に置いた飛脚の継立所である。
紀州家は江戸から和歌山間(146里・約584㎞)に役所を23ヶ所設け、江戸勤番の中間の中から、体格・知力の優れた者を2人ずつ選び配置した。ちなみに上りは掛川宿、下りは丸子宿で引継ぎをした。

常飛脚問屋跡 金谷の一里塚跡 厳室神社 長光寺
お七里役所の先左手の協和水道㈱の前に定飛脚問屋跡がある。
常飛脚とは、「三都常飛脚」 ともいい、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度 (2日、12日、22日) 出したことから 「三度飛脚」、取扱所を 「三度屋」 とも言った。また、この飛脚が被った笠を 「三度笠」 と呼んだ。
街道左手の大井川鉄道金谷駅の手前に金谷の一里塚跡があり、東海道道標、東海道金谷宿案内絵図が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて53里目の一里塚である。
街道は一里塚跡を左折するが、大井川鉄道金谷駅の向かい側に厳室神社があるので寄ってみた。厳室神社は、正治2年(1200)頃、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)を勧請奉斎したのが始まりと云う。金谷の名はこの金山彦から、由来したと言われる。その後、社名は、「若一王子社」、「姫宮」 から 「巌室神社」 に変更された。 金谷の一里塚跡を左折して金谷架道橋をくぐると正面に日蓮宗の本遠山長光寺の参道口がある。創建年代等は不詳であるが、境内には七面堂、芭蕉句碑 「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 喰われけり」 がある。

秋葉山常夜燈 不動橋 西宿口 旧東海道石畳入口
街道を進むと不動橋の手前に秋葉山常夜燈が建っている。
秋葉山常夜燈の奥の段上には、不動堂と思われる御堂が建っている。
現在の不動橋は、江戸時代には 「西入口土橋」、「金谷大橋」 と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていた。
ここからは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つとなる。
不動橋の先の西宿口は次第に急坂となり、整然と積まれた石垣が見事であり、坂の左手には宿口の道祖神がある。 大井川鉄道金谷駅前から回り込んできた国道473号線を横断すると旧東海道石畳入口がある。

金谷坂石畳上り口 仁誉地蔵尊 鶏頭塚 金谷坂石畳
舗装路を少し上った先に東海道金谷坂石畳登り口がある。
登り口の脇には、石畳茶屋があり煎茶セットなどで休憩できる。
石畳に入って直ぐ右手に仁誉地蔵尊の祠がある。
その昔、この坂町に住む仁一は 「足の病」で苦しんでおり、坂の入口にある地蔵尊を毎日拝んでいた。ある日、夢枕に地蔵尊が現れ、「旅人の足を守るよう地蔵堂を建立し功徳を積むように」 とお告げがあり、仁一が毎日旅人の御足の無事を祈願していると、いつの間にか自身の足が良くなっていたという。以来旅人の守り仏として知られるようになった。
仁誉地蔵尊の直ぐ上に鶏頭塚がある。
鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。
ここには 「曙も夕ぐれもなし鶏頭華」 と刻まれた巴静句碑、庚申堂、三猿を刻んだ庚申塔、地蔵菩薩などがある。
鶏頭塚の先はかなりの急坂で、敷き詰められた一つ一つの石が大きくて丸いので、足の置き方によっては滑って歩きづらい。

すべらず地蔵尊 金谷坂分岐 諏訪神社 諏訪原園茶舗
石畳を上って行くと 「すべらず地蔵尊」 と書かれた赤い幟が並んでおり、右手の林の中に六角堂があり、中に双体地蔵尊が安置されている。 石畳を上り切ったところで舗装道路に合流する。
合流地点の左手に明治天皇御駐輦址碑、芭蕉句碑 「馬に寝て残夢月遠し茶の烟」 があり、その向かい側には三面六臂の馬頭観音などがある。
先に進んでアルム珈琲店の手前路地を右に入って行くと諏訪原城跡があり、その中に諏訪神社がある。
諏訪原城跡は、天正元年(1573)武田勝頼の家臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた雄大な山城でり、当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害であった。
諏訪原城跡を出ると県道234号線の手前に諏訪原園茶舗があり、ここで暫し休憩をとった。
店内には機械が設置されており、お茶が出来るまでの工程が図解されている。ここで煎れてもらったお茶は本当に美味しかった。

菊川坂石畳下り口 菊川坂石畳 舗装路横断 菊川坂石畳口
諏訪原園茶舗の前の県道234号線を渡ると菊川坂石畳の下り口がある。
ここには静岡県知事石川嘉延氏揮毫の菊川坂石畳碑 「万古不易」 があり、右手の栗ケ岳には木で作られた 「茶」 の字が見えている。
この菊川坂石畳は、江戸時代後期のものと確認されている。
江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされたが、この石畳も近隣12か村に割り当てられた助郷役の人たちによって設置されたものである。この長さは、約690mあったと言われているが、現在は様々な工事により一部破損されたところもあり、161mが残っている。
茶畑の中の石畳を下って行くと途中で舗装路を横断する。
ここで下から夫婦と思われる二人連れが自転車をついて上がって来た。
石畳を抜けると間の宿菊川集落へ入る舗装路に出る。
菊川の里は、承久3年(1231)の承久の乱で捕えられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中に詩を残しており、また元弘元年(1331)の元弘の変で捕えられた公卿日野俊基が鎌倉へ送られる途中に歌を残している。

法音寺 中納言宗行卿塚 菊川の辻道標 白菊姫
舗装路に合流して間もなく右手に曹洞宗の法音寺がある。
創建代等は不詳である。
法音寺の裏から斜面を200mほど入ったところに中納言宗行卿塚がある。
途中には地蔵堂があり、その手前に塚への指差し道標が建っている。
中納言宗行卿塚は、文久3年(1863)水戸藩士渡邊宮内右衛門源進が 「宗行卿之塚」 と刻んだ石碑を建立したものだが、この場所に移設の際に割れてしまったために再建された。
街道に戻ると菊川の手前の逆Y字路中央に菊川の辻道標が建っている。
この道標は遠江三十三ケ所観音巡りの25番札所(金谷町松島山岩松寺)の道標である。
菊川の辻道標の先で菊川に架かる高麗橋を渡って行くと民家の前に白菊姫伝説の絵が描かれている。

秋葉山常夜燈 案内絵図 菊川の里会館 四郡の辻道標
白菊姫の絵から程なく街道右手に御堂が建っている。
御堂には、青銅製の秋葉山常夜燈が安置されており、この斜向かいには東海道道標菊川の里がある。
東海道道標の先に建屋の壁全面に描かれた 「昔をしのぶ間の宿菊川」 の案内絵図がある。 案内絵図の斜向かいに菊川の里会館がある。
ここには承久の変で捕えられた中納言宗行卿詩碑、正中の変で捕えられた日野俊基歌碑、白菊姫伝説の菊石がある。
菊川の里会館の先で小川を渡った左手の石畳の中に四郡の辻道標が建っている。

菊川神社 青木坂登り口 茶畑の青木坂 阿仏尼歌碑
四郡の辻を左に進んだところに菊川神社がある。
菊川神社は、菊川地区の産土神として祀られてあった八幡神社、若宮八幡神社、駒形神社、津島神社の四柱を合祀して昭和35年に創立された。
四郡の辻から僅かな石畳を登った先に青木坂の登り口がある。 青木坂登り口から先は、これまでの峠でもあまりなかった心臓破りの急坂が続いている。
坂の左手は、緑一色の茶畑が広がっている。
登り坂の途中にある島田市と掛川市の境標を越えると右手の民家前に鎌倉中期の歌人阿仏尼の歌碑がある。
碑には、阿仏尼が記した紀行文 「十六夜日記」 の一節 「雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月」 と刻まれている。

衣笠内大臣歌碑 接待茶屋跡 久延寺 中山区公会堂
更に急坂を登って行くと左手の木の間に鎌倉時代の歌人衣笠内大臣の歌碑がある。
碑には、「旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり」 と刻まれている。
急坂を登り切った左手に接待茶屋跡がある。鎌倉時代の永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の憩いの場となっていたという。
松尾芭蕉の 「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟」 の句はこの辺りで詠まれたものである。
接待茶屋跡の向かいに真言宗の佐夜中山久延寺がある。
ここには山内一豊が関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉征伐の軍を大坂より進めてきた家康をもてなした
茶亭の跡や、その礼に家康が植えたとされる五葉松、小夜の中山夜泣き石などがある。
接待茶屋跡の隣に中山区公会堂 「命なりけり学舎」 があり、この庭前に橘為仲朝臣の歌碑がある。
碑には、「旅寝する さよの中山 さよ中に 鹿も鳴くなり 妻や恋しき」 と刻まれている。

御上井戸 扇屋 西行歌碑 佐夜鹿一里塚跡
中山区公会堂の脇から左の細道を30mほど下ると御上井戸がある。
慶長5年(1600)家康が会津上杉討伐のため大坂城を出発し、その途中掛川に立ち寄った際、山内一豊が久延寺に茶亭を設け、家康をもてなしたといわれているが、その時の水を汲んだ井戸である。
街道に戻ると右手に江戸時代から続く扇屋がある。
扇屋は小夜の中山伝説に因んだ 「子育て飴」 を売る茶店である。
扇屋の向かいに西行歌碑がある。西行歌碑の奥は中山公園となっている。
西行は二度中山峠越えをしているが、文治2年(1186)、西行69歳2度目の旅は、東大寺の大仏建立のため、奥州平泉へ砂金勧進の旅だった。
西行歌碑の先は尾根道でやや下って行く快適な道であり、その左手に佐夜鹿の一里塚跡がある。この一里塚は慶長9年(1604)に造られ、塚木は松と榎であった
ここは江戸日本橋から数えて56里目の一里塚である。

蓮生法師歌碑 神明神社 鎧塚 紀友則歌碑
街道左手の神明神社の入口に蓮生法師の歌碑がある。
碑には、「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」 と刻まれている。
蓮生法師歌碑の横から林に入ると神明神社がある。
一見神社とは思えない建屋が二つあるが、拝殿と本殿の覆屋である。
神明神社から程なく左手の林の中に鎧塚がある。
建武2年(1335)、鎌倉幕府を再建しようと北条時行が挙兵し、世に言う 「中先代の乱」 を起し、北条時行の一族である名越邦時が京へ上ろうとして、この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、北条邦時の武勇を讃えてここに塚を造り葬ったと言われる。
両側に茶畑を見て下ると左手に紀友則の歌碑がある。
碑には、「あづまぢの さやの中山 なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ」 と刻まれている。

藤原家隆朝臣歌碑 芭蕉句碑 白山神社 壬生忠岑歌碑
茶畑が左右に広がる街道の左手に藤原家隆朝臣の歌碑がある。
碑には、「ふるさとに 聞きしあらしの 声もにず 忘れね人を さやの中山」 と刻まれている。
茶畑の中の街道を更に下って行くと左手の林の前に芭蕉の句碑がある。
碑には、「道のべの むくげは馬に くはれけり」 と刻まれている。
芭蕉句碑から程なく右手の茶畑の中に白山神社がある。
拝殿の中には白山神社の小さな本殿があり、拝殿前には珍しい丸石の道祖神が建っている。
更に下って街道がY字路になる手前左手に壬生忠岑の歌碑がある。
碑には、「あづまぢの さやの中山 さやかにも 見えぬ雲居に 世をや尽くさん」 と刻まれている。

馬頭観音 三界萬霊塔 芭蕉句碑 芭蕉句碑
Y字路を左に進んで行くと左手の茶畑の前に馬頭観音が建っている。
佐夜の中山峠には、多くの伝説が残されているが、その一つに蛇身鳥退治の物語が言い伝えられている。
この馬頭観音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされている。
馬頭観音を過ぎると右手の茶畑の中に三界萬霊塔が建っている。
これは蛇身鳥伝説にまつわる妊婦の墓であり、妊婦とは三位良政卿と月小夜姫との間に生まれた小石姫である。小石姫が中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われていたところ、轟業右衛門という男に切り殺された。墓石には、「往古懐妊女夜泣松三界万霊塔・・・旧跡」 と刻まれており、解説碑には自害したと刻まれている。
三界萬霊塔の向かいの 「涼み松広場」 の中に芭蕉句碑が建っている。
句碑には、「命なり わずかの笠の 下涼み」 と刻まれている。
涼み松広場から下ること程なく左手に芭蕉句碑が建っている。
碑には、「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」 と刻まれている。

夜泣き石跡 広重画 茶畑の街道 稲荷大明神
左手の茶畑に沿った街道を下るとやや低くなったところに夜泣き石跡がある
その昔、月小夜姫と三位良政卿との間に生まれた小石姫という身重の女が、ここにあった松の根元で轟業右衛門という男に斬り殺された。

そばにあった丸石に小石姫の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里人はその石を 「夜泣き石」 と呼んで恐れた。
夜泣き石から50mほど下った右手に広重画の東海道53次の内日坂がある。
広重画の日坂には、小夜の中山と夜泣き石が描かれている。
広重画を過ぎると街道両側に茶畑が広がっているが、ほぼこの辺りで茶畑の中の道は終了である。
その先は林に囲まれた沓掛の急坂である。
茶畑が途切れて民家が見える辺りの左手丘上に稲荷大明神がある。

二の曲り 日乃坂神社 広重画 秋葉山常夜燈
稲荷大明神を過ぎると林の中をうねる急坂の沓掛坂である。
この急カーブは、旧坂口町を過ぎて東へ向かい沓掛へ至る 「二の曲り」 である。
沓掛の地名は、峠の急な坂道に差し掛かったところで草履や馬の沓を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い習慣に因ると言われている。
二の曲りの左手の林に日乃坂神社がある。
創建年代等は不詳であるが、鳥居の奥に簡素な拝殿が建っている。
国道1号線日坂バイパスの高架が見えると沓掛坂は終了である。
高架下をくぐる手前の左手に広重画の 「狂歌入東海道53次日坂」 がある。
国道1号線日坂バイパスの高架下をくぐり、県道415号線を渡ると日坂宿の集落に入る。
街道を進むと右手の広場(本陣跡)角に秋葉山常夜燈が建っている。
この常夜燈は、安政3年(1856)に建てられたものであるが、老朽化が進み平成10年(1998)に撤去され、改めて復元されたものである。

日坂宿本陣跡 問屋場跡 池田屋 脇本陣黒田屋跡
秋葉山常夜燈の先に日坂宿本陣跡があり、本陣門が建っている。
日坂宿本陣の野合は 「扇屋」 といい、代々片岡家が世襲で勤めていた。本陣の敷地はおよそ350坪・建坪220坪、門構・玄関付きの建物であった。
ここには東海道道標、日坂宿案内絵図などがある。
本陣跡前の十字路を渡ると、色々な屋号の家が並び、その右手に問屋場跡がある。
橘屋の屋号が建っているが、建物などの遺構は残っていない。
問屋場から3軒目に格子戸が目立つ旅籠池田屋がある。
昔の旅籠の佇まいを残したまま現在も旅館を営んでいる。
池田屋から2軒隣に脇本陣黒田屋跡がある。ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた 「黒田屋(大澤富三郎家)」 があった。
黒田屋の拵えは文久2年(1862)の宿内軒並取調書上帳に、間口8間、奥行15間、畳101畳、板鋪15畳、建坪数120坪と記されている。
また、明治天皇が街道巡幸の際、明治2年(1869)、明治11年(1878)の2回にわたり、ここ脇本陣で小休止されている。

伊藤文七邸 法讃寺 萬屋 川坂屋
街道を先に進むと右手に伊藤文七邸がある。
ここは日坂宿最後の問屋役を務めた商家で屋号は藤文という。
手前にある 「かえで屋」 部分は明治初期に建てられたものであり、
建物前に藤文の解説、広重の狂歌入東海道53次日坂がある。
藤文の脇の奥に真宗大谷派の三悟山法讃寺がある。
法讃寺は、寛永3年(1626)誓玄和尚によって創建された。
境内には、安政3年(1856)に再建された太子堂、徳川家康の家臣成瀬藤蔵正義を先祖とする成瀬暁心翁之碑がある。
法讃寺を出ると右手に江戸時代末期の旅籠萬屋がある。
同じ宿内で、斜向かいの 「川坂屋」 が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して 「萬屋」 は庶民が利用した旅籠であった。
嘉永5年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後、安政年間(1854-59)に再建されたといわれ、建屋内は公開されており見学が出来る。
萬屋の斜向かいに身分の高い武士や公家などが宿泊したという旅籠川坂屋がある。
川坂屋は寛政年間(1789-1800)に問屋役を務めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられている。
江戸時代の面影を遺しす精巧な木組みと細かな格子が特徴の建物内は公開されており見学が出来る。

相伝寺 高札場跡 下木戸跡 古宮橋
川坂屋の前から右にカーブする坂道の右手に浄土宗の相伝寺がある。
相伝寺は、天長2年(825)の創建といわれ、その後、日坂本陣扇屋当主片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長2年(1597)に開基した。
境内には観音堂があり、観音堂脇には33体の観音菩薩像、延命日限地蔵尊などがある。
相伝寺を出ると右手に高札場跡があり、高札が復元されている。
高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場とも言われていた。高札の内容は、日坂宿が幕領であったため、公儀御法度(幕府法)が中心で、年代によって若干の書き換えがあった。
高札場跡の隣に下木戸跡がある。
日坂宿では、川が門の役割を果たしており、古宮橋の架かる逆川のこの場所が 「下木戸」 となっていた。
江戸時代初期までは橋幅も狭く、粗末な木橋で,、一旦事が起こった時は、宿場の治安維持のために橋を外したと伝えられている。
下木戸跡の脇に門の役割を果たしたという逆川に架かる古宮橋がある。

賜硯堂成瀬大域出生の地 若宮神社 東海道道標 事任本宮
古宮橋を渡って進んで行くと左手に賜硯堂成瀬大域出生の地碑が建っている。 街道を進むと逆Y字路の右手段上に若宮神社がある。
鳥居の横には、弘化2年(1845)の秋葉山常夜燈が建っている。日坂宿には、これまでに本陣入口と相伝寺境内にあったが、これを含めて計3基の秋葉山常夜燈が遺っている。
若宮神社を過ぎると、街道が県道415号線に合流する手前に東海道道標日坂宿宿場口が建っている。 東海道道標の隣に事任(ことのまま)本宮の鳥居が建っている。
鳥居の先を上った本宮山にある事任本宮は、東側にある事任八幡宮の旧社地である。
大同2年(807年)に現在の事任八幡宮に遷座していることから、かなり古くから鎮座していたと思われる。

事任八幡宮 塩井神社 嵐牛蔵美術館 福天権現本道道標
事任本宮を出て県道415号線を渡ったところに事任八幡宮がある。
事任八幡宮の創立年代は不詳であるが、大同2年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武天皇の勅を奉じ、旧社地本宮山より現在地へ遷座したと伝えられている。境内には掛川市指定天然記念物のクスノキ・大杉、金刀比羅神社などの境内社がある。
事任八幡宮を過ぎると街道は一直線で、1㎞程進んで国道1号線掛川バイパスの高架下を潜って左手の道に入ると歩道橋脇に塩井神社鳥居がある。
ここには雄鯨山雌鯨山の伝説が残り、八幡宮の神が日坂村の人々が清めをするために塩水が湧き出る場所を作った所という。
塩井神社は、逆川の対岸にあり、仮橋が流されていたため渡れなかった。
街道の右手に嵐牛蔵美術館がある。
ここは伊藤嵐牛とその門人・友人など東海道を行き来した文人・墨客の作品を収納した蔵の美術館である。
ここには俳人伊藤嵐牛翁出生地碑が建っている。
嵐牛蔵美術館の先左手の掛川バス亭のところに福天権現本道道標が建っている。
ここから南に延びた県道250号線の先にある菊川町西方の洞谷山龍雲寺を目指す道標である。

伊達方一里塚跡 大頭龍神社 歌人石川依平出生地碑 諏訪神社
県道250号線とのT字路右手に伊達方の一里塚跡がある。
当時、塚の大きさは直径7間(12.7m)、高さ3間(5.4m)の小山で、一里山と呼ばれていた。
ここは江戸日本橋から数えて57里目の一里塚である。
伊達方一里塚跡の向かい側に大頭龍神社がある。
鳥居脇に大正2年(1913)の西方村堀ノ内駅道標が建っている。
国道1号線に合流する手前に歌人石川依平出生地碑がある。
石川依平は江戸時代後期の国学者で、寛政3年(1791)ここ伊達方村に生まれ、文化10年(1813)同郷の栗田土満に入門し、国学に精進した。門弟は300人を数えたという。
傍らには、寛政7年の常夜燈があり、小路を挟んだ向かいの畑の中に慶雲寺道道標が建っている。
国道1号線に合流し100mほど進むと左に入る旧道があり、その左手段上に諏訪神社がある。
創建年代は不詳であるが、貞観16年(874)信濃国諏訪大社上社より分霊し奉遷されたという
また相殿として元和元年(1615)より素佐之男命を配祀している。歌人石川依平は6歳のとき、松と題して 「あきらけき 神路の山に阿とたれて 千代や栄へむ松のことの葉」 と詠じて奉納している。

六地蔵尊 東海道道標 津島神社 秋葉山三夜塔
街道を進んで行くと右手の墓地前に六地蔵尊があり、建屋の中には青面金剛の庚申塔、如意輪観音が安置されている。 旧道が国道1号線に合流するところに東海道道標が建っている。
傍らには、小さな地蔵菩薩が建っている。
国道1号線に合流して直ぐ右手の路地を入って行くと津島神社がある。
境内には、本所公会堂があり、鳥居脇の鞘堂(覆屋)の中には文化元年(1804)の秋葉山常夜燈が安置されている。
街道を進んで掛川市山鼻横断歩道橋を越えると右手に再建された秋葉山三夜塔が建っている。これまで秋葉山常夜燈は見てきたが、三夜塔というのは初めてである。

馬頭観音 神明神社 地蔵堂 阿弥陀寺
暫く国道1号線を進み、Y字路の本村橋信号交差点を左に進む旧道に入ると右手の御堂に三面八臂の馬頭観音が祠に安置されており、街道に面して東海道道標が建っている。 旧道に入って最初の十字路を左に進むと右手奥に神明神社がある。
創建年代等は不詳であるが、境内には文化10年(1813)の秋葉山常夜燈が建っている。
街道に戻って進み掛川市立西山口小学校を過ぎると左手民家前に地蔵堂がある。 地蔵堂の先の十字路を左に進むと逆川の近くに浄土宗の正覚山阿弥陀寺がある。
阿弥陀寺は、元和5年(1619)円蓮社鏡誉上人による開創といわれる。
境内には、観音堂があり、西国三十三所観世音菩薩が安置されている。

地蔵堂 道標 秋葉山常夜燈 馬喰橋
街道を進んでJA掛川市西山口の手前を左に入ると十字路角に地蔵堂がある。
地蔵堂には、延命子育地蔵尊が安置されている。
JA掛川市西山口の前に道標がある。
この道標は、菊川市加茂にある大頭龍権現と菊川市西方の龍雲寺にある福天権現を示す道標である。
道標には、大頭龍大権現、福天大権現と刻まれている。
街道を進むと福井肥料店の隣の民家脇に昭和50年の秋葉山常夜燈が建っている。 先に進んだ信号十字路を越えると逆川に架かる馬喰橋がある。
馬喰橋は、昭和62年(1987)に築造されたコンクリート橋で、全長50m、幅16mであり、親柱は馬の顔をイメージしたデザインとなっている。
かつては長さ23間(約41.8m)の土橋だったという。

葛川一里塚跡 掛川七曲入口 東伝寺 秋葉常夜燈
馬喰橋の渡り詰め左手に葛川の一里塚跡がある。
ここには新しい秋葉常夜燈、掛川市内案内図が建っており、その左手の道の先には葛川区公会堂がある。また、一里塚跡の向かいに掛川宿名物振袖餅の創業200年の老舗 「もちや」 があり、駐車場脇に東海道道標が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて58里目の一里塚である。
街道が変則Y字路になるところに東海道七曲道標が建っている。
ここから東海道は鉤の手に曲折しており、「七曲り」 と呼ばれる道は、敵の侵入を阻むつくりとなっている。
七曲道標を左折すると直ぐ右手に曹洞宗の東伝寺がある。
創建年代等は不詳であるが、境内には日限地蔵尊、吉祥天、境内社の王子稲荷神社がある。
東伝寺を出て最初の路地を右折していくと突当りに葛川一里塚跡にあったのと同じ形の秋葉常夜燈が建っている。
街道は、ここを左折して行く。


厄除地蔵尊
掛川宿東番所跡 呉服商 「桝忠」 天然寺
秋葉常夜燈から左に真っ直ぐ進んで突当りの鉤の手を右に曲がり、二本目の路地を左に入ると厄除け地蔵尊がある。 厄除地蔵尊を過ぎて突当り鉤の手を右に曲がるとその先に枡形がある。
ここは掛川宿東番所跡であり、東海道道標と七曲り解説が建っている。
枡形を出た十字路を左折し、次の十字路を右折して、二本目の二車線道路角にある丁葛の老舗 「桂花園」 前を左折すると仁藤前信号交差点角に寛政2年(1790)創業の呉服商 「桝忠」 がある。 桝忠の前から北に進むと浄土宗の泉洞山天然寺がある。
天然寺は、明応3年(1494)専蓮社秀誉上人によって創建された。
境内には、オランダの通商使節であったゲイスベルト・ヘンミーの墓がある。墓は蒲鉾形をした長櫃の蓋を伏せたような形で玉垣で囲まれている。

掛川城大手門 三光稲荷大明神 掛川宿本陣跡 掛川城
掛川信用金庫前の信号交差点を右に進むと掛川城大手門が復元されている。
大手門をくぐると城内に出入りする者を監視する役人の詰め所の大手門番所が建っている。この大手門番所の建物は、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたものである。
大手門番所の裏に三光稲荷大明神がある。
三光稲荷は、名馬の誉の出世で有名な山内一豊が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行ったが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請したものである。
掛川城大手門から街道に戻ると右手に掛川宿本陣跡がある。
本陣跡標柱などはなく、本陣通りとして出店がいっぱい並んでいる。この向かいには掛川市役所出張所がある。
掛川宿は、天保14年(1843)の記録によると、本陣2軒、旅籠屋30軒、960軒の家があった。
掛川宿本陣跡の先の連雀西信号交差点を右折すると逆川に架かる緑橋の先に掛川城がある。室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城の始まりであり、戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城した。
山内一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注いだ。

清水銀行
街道の中町信号交差点角に清水銀行掛川支店がある。
清水銀行の壁には山内一豊夫妻の像が彫刻されている。
本日はここで終了し、掛川駅前で宿泊の予定である。

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