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東海道   (岡部~島田)


平成28年5月3日(火) ☀|☁  岡部~島田  16.2㎞
今朝も天気は安定しているようである。友人は早朝4時から起き出して近くの石碑を見に出掛け、宿に戻ったのは5時30分である。早速、身支度を整え、旅館きくやのおかみさんに送られて出発した。岡部からは平坦な道を南下して、JR藤枝駅に近づいたところから東海道本線に沿った道を進んで行く。

旅館きくや 五智如来公園 かど万米店 若宮八幡宮
日の出の時刻は過ぎているのであろうが、太陽は山の端に隠れて顔を出していない。 街道に出ると直ぐ右手に五智如来公園の冠木門があり、公園の奥には五智如来像が安置されている。
この五智如来像は、誓願寺の境内で街道に面して安置されていたが、寺が移転したため、この場所に移されたものである。
五智如来公園の先で若宮八幡宮に入る右角に「かど万米店」がある。
かど万米店は、大正元年(1912)の創業で、増田万吉がお米や醤油などの食料品やタバコを扱った 「増田商店」 が始まりという。
かど万米店を右に曲がって朝比奈川に架かる宮前橋を渡ると若宮八幡宮がある。
若宮八幡宮は、延喜8年(908)8月駿河に下向して仮宿に居館を構えた平安時代の三十六歌仙の一人、堤中納言藤原兼輔が京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりという。境内には堤中納言の子孫が建てた天保13年(1842)の由来碑がある。

岡部宿の松並木 岡部宿碑 道標 岩村藩領榜示杭
街道に戻ると右手のガソリンスタンドエッソの辺りから松並木が始まり、国道1号線藤枝バイパスの手前まで続いている。 国道1号線藤枝バイパスの手前に岡田宿碑と常夜燈が建っている。
京方面から来た場合は、ここから岡部宿に入っていく。
国道1号線藤枝バイパスの高架下を潜った先の右手金網に 「この先東海道横内村」 の道標が貼られている。 道標の先に見える黄土色の家の角に岩村藩領榜示杭が建っている。 榜示杭には 「従是西岩村領横内」 と記されている。
この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭(復元)である。

慈眼寺 陣屋小路 あげんだい 川除地蔵尊
街道左手に曹洞宗の西了山慈眼寺がある。
慈眼寺は、藤枝市の常楽院六世学翁宗参和尚の弟子・龍谷秀泉和尚が、横内村の人々の協力を得て伽藍を建立し、師の学翁宗参和尚を開山に仰いで慈眼寺を開創した。
ご本尊は阿弥陀如来で、境内には岩村藩三代目代官を祀った宝暦11年(1761)の代官地蔵尊がある。
街道右手の路地に陣屋小路の標柱が立っている。
この先は岩村藩横内陣屋があったところで、先に進んで行くと朝比奈川の堤防の前に稲荷神社がある。
朝比奈川に架かる横内橋の袂に高さ5mほどの 「あげんだい」 と呼ばれる松明が建っている。
毎年8月16日にお盆の送り火が、この松明で行われ、朝比奈川では灯籠流しが行われるという。
あげんだいの奥の堤防上に慶應3年(1867)の川除地蔵尊がある。
地蔵尊の脇には、昭和17年(1942)の軍馬を祀った馬頭観音が建っている。

横内橋 川除地蔵尊 地蔵尊 道標
朝比奈川に架かる横内橋を渡って行く。
横内橋は歩道が無く、集落内の道路幅と比較すると狭くて、車のすれ違いは出来そうにない。
横内橋の渡り詰めの右手堤防上に川除地蔵尊がある。
標柱には、橋向地蔵尊・子授地蔵尊と記されている。
横内橋の渡り詰めの左手堤防上にも地蔵尊がある。
こちらには標柱はなく、中を覗くと地蔵菩薩立像が安置されている。
街道を進むと左手に名残松のある十字路があり、この右角の塀に 「東海道横内村」 の標示板が塀に貼られている。
標示板の左下には、「仮宿區入口通」 道標が建っている。

岩村藩領榜示杭 田中領榜示石 観音寺 鬼島の一里塚跡
松並木の前を通って進むと、仮宿交差点の前に岩村藩榜示杭が建っている。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とし、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に15ヵ村、5千石分の飛領地があり、横内村に陣屋を置いて治政を行っていた。この榜示杭は東海道4百年祭に復元されたもので、「従是東岩村領横内」 と記されている。
仮宿交差点を渡ると左斜めに旧道があり、入って直ぐ名残松がある。
この左手の名残松の下に田中領の榜示石が建っている。
この榜示石は復元されたもので、「従是西田中領」 と刻まれている。
田中領榜示石の先の橋を渡り、街道を外れて左の葉梨川を渡ると曹洞宗の普門山観音寺がある。
今川家の旧臣で今川没後この地に蟄居していた安達家14代盛宗が先祖から受け継がれて来た観音菩薩を安置する堂字を村人の協力を得て建立したのが、普門山観音寺の始まりである。ここは駿河33観音霊場の9番札所であり、境内には風化の進んだ供養塔などがある。
街道に戻って葉梨川に沿った道を進むと、名残松を過ぎた左手の民家前に鬼島の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて49里目の一里塚である。

地蔵尊 道標・地蔵祠 建場(立場)跡碑 社軍司神社
鬼島一里塚跡の先で街道が葉梨川に近づくと堤防の上に祠があり、地藏菩薩坐像が安置されている。 地蔵尊の直ぐ先で葉梨川に架かる八幡橋を渡ると、渡り詰め右手に道標と地蔵祠がある。
道標は、東海道と田中城への分岐に建てられたもので、「東海道 御成道」 と刻まれている。
街道を進むと左手に半鐘櫓と常夜燈があり、その傍らに建場(立場)跡碑が建っている。
碑には、東海道道中膝栗毛の鬼島立場のくだりが刻まれている。
建場跡碑の先の右手路地を入って行くと葉梨川の手前に社軍司神社がある。

青山八幡宮鳥居 須賀神社 本行寺 全居寺
街道右手に青山八幡宮の鳥居が建っている。社殿は葉梨川を越えた先にあるので寄らなっかったが、社伝によれば京都石清水八幡宮の別宮で、天喜・康平年間(1063~65)源頼義、源義家が奥州下向のとき奥羽征討祈願のため、石清水八幡宮の御分霊を勧請して奉斎した社であるという。 青山八幡宮鳥居の直ぐ先に須賀神社がある。創建年代は不詳であるが、慶長10年(1605)に再建されたと言われている。
境内には推定樹齢500年の大楠がある。
須賀神社の裏に日蓮宗の護国山本行寺がある。
本行寺は昭和10年(1935)の開創であり、本堂の裏手に南無妙法蓮華経題目碑3基建っている。
須賀神社に隣接して曹洞宗の池厳山全居寺がある。
全居寺境内にある観音堂は、法然上人が開創したと伝えられる古堂であり、「蛇柳如意輪観音」と呼ばれる観音様を祀っており、この由緒ある観音堂をもとにして、正屋順公和尚が水守村の村人に禅の教えを説き、元和3年(1617)に寺院を建立したのが始まりと云う。

旧道跡 道標 名残松 藤枝宿東大木戸跡
全居寺の先で土地区画整理で取り残された旧道跡があり、名残松が立っている。 名残松のある旧道跡の延長線上で道路を横断すると消火栓標識の下に小さな道標が建っている。
刻まれた文字は全ては確認できないが、おおよそ判読できる。
道標の先に進むと名残松があり、その先で旧道は行き止まりとなる。
ここには東海道案内地図があり、直接右手の道路を横断せずに先へ行って信号を渡るよう記されている。
街道を進むと天理教益津大教会の前に東木戸跡の標柱がある。
標柱は、平成13年東海道四百年祭で建てられたようだが、文字は完全に消えていて全く確認できない。

新護寺 左車神社 濱小路 愛宕神社
藤枝宿大木戸跡の直ぐ先に成田山新護寺がある。新護寺は、かつて照光院と称し、後嵯峨天皇の第一皇子宗尊新王が東行の際、御所車の左側の車輪が壊れてしまい照光院で休息したことから、「左車山休息寺」 と改称された。その後、一時廃寺となり、明治初年に5百石取りの旗本市川幾太郎が、堂宇を再建し、自分の弟子であった鈴木惣五郎(法憧)を出家させ、成田山の分霊を拝受し、新護寺として開創した。 新護寺の隣に左車神社がある。
建長4年(1252)第88代後嵯峨天皇第一皇子宗尊親王が鎌倉将軍に任じられ、東下の際この地において御所車の左側車輪が壊れたため、車を直すまで近くの照光院で休息された。これが由縁で照光院は 「左車山休息寺」 と呼ばれ、壊れた車輪を埋めた場所を左車神社として祀った。これが、町名の左車となった。
新護寺の向かいの路地角に 「濱小路 是より焼津湊まで一里余」 の標柱が建っている。
この道は、田中城付近を通って焼津湊に抜けていた。
濱小路の一本先の左手路地を入って行くと愛宕神社がある。
創立年月不詳であるが
、愛宕神社は防火鎮火の神様であり御祭神は邪那美命・加具土神で、相殿には村岡神社があり応神天皇、桓武天皇を奉祀している。

布袋尊像 大黒天 養命寺 白子名店街
街道左手の島田信用金庫の敷地内に布袋尊像がある。
布袋尊像の前には、明治43年(1910)の道標があり、「従是西下傳馬 従是東左車」 と刻まれている。
島田信用金庫の先で信号十字路を超えると、右手に 「町内安全」 と刻まれた常夜燈があり、その奥の下伝馬会館の前に大黒天がある。 常夜燈の向かいの路地を入ると浄土宗の池龍山養命寺がある。
養命寺は、大永3年(1523)小田市郎兵衛という在家の信者が、土地財産を布施し小田家先祖の供養のために建立したのが始まりと云う。山門の横には地蔵堂があり、弘法大師作といわれる石地蔵が祀られており、境内には長唄師匠杵屋正太郎の石碑などがある。
養命寺を出ると本町の白子名店街が続いている。
閉じられた店のシャッターには、懐かしい映画の広告や田中城の絵図などが描かれている。

向善寺 了善寺 秋葉三尺坊大権現 白子由来碑
中華料理店 「香蘭」 の角を右に入ると曹洞宗の牛頭山向善寺がある。
向善寺は、寛永年間(1624-43)全宗という禅僧が真言寺院の跡地に小庵を結び、地蔵菩薩と弘法大師の尊像を安置し、市部村の人々の協力を得て新しい寺院を開創したのが始まりと云う。
境内には、地蔵堂、恵比寿堂がある。
向善寺の隣に浄土宗の光明山悟真院了善寺がある。
了善寺は、文明18年(1486)遠江国見崎の海中から発見された中国唐代の高僧・善導大師の像が縁で開創されたという。
山門は田中城の裏門で、境内には悟真舎と呼ばれる堂宇があり、中には地蔵菩薩と閣魔王が安置されている
了善寺から街道に戻る途中の白子会館の隣に秋葉三尺坊大権現がある。 街道に出ると小川眼科医院の前に白子由来碑がある。
この由来碑によると、天正10年(1582)織田信長が殺された 「本能寺の変」 の際、泉州堺にいた徳川家康は身の危険を感じ、間道を選んで伊賀路を越えて伊勢の白子の浜に出た。ここで小川孫三という者が家康一行を舟に乗せ対岸の知多半島まで運んだという。家康はこの恩に報いるため、孫三に藤枝宿の一角を与え諸役免除の御朱印を与え、新白子町と名付けた

茶木稲荷神社 蓮生寺 長楽寺常夜燈 長楽寺
白子由来碑の先の信号十字路を越えて一本目の右手路地を入って行くと茶木稲荷神社がある。 茶木稲荷神社の近くに浄土真宗大谷派の熊谷山蓮生寺がある。
熊谷山蓮生寺はその山号寺号が示すように 「平家物語」 で有名な熊谷次郎直実(蓮生房)にまつわる由緒深い寺である。
境内には、藤枝市指定文化財の天然記念物イブキがあり、推定樹齢700年と言われる。
蓮生寺参道入り口の隣に長楽寺の秋葉山常夜燈が建っている。
常夜燈の前には、東海道道標藤枝宿が建っている。
長楽寺常夜燈の先の左手路地を入ると水路の先に臨済宗妙心寺派の青龍山長楽寺がある。
仁安年中(1166-68)、岡出山の麓に粉川長楽斎という長者夫妻の間に力姫と呼ばれる美しい一人娘がいたが、長者屋敷の裏山の青池に棲む大蛇が娘を池に引き込んでしまったという。この娘の菩提供養のために自分の家屋敷に寺を建立し、薬師如来と阿弥陀如来の二尊を本尊として開創したのが長楽寺であると伝わっている。

慶全寺 若一王子神社 洞雲寺 大慶寺
長楽寺の東側に臨済宗妙心寺派の守国山慶全寺がある。
慶全寺は、最初田中城の城脇に建立された寺院で、田中城の歴史と深い繋がりがある。開創後移転や火災のため開創年代等は不詳であるが、近年の調査研究によって、天正年間(1573-91)に三枝虎吉の発願によって創建されたことが分かっている。
境内には、聖観音を安置した旧本堂が観音堂として残されている。
街道に戻って進むと右手路地入口に常夜燈があり、突当りに若一王子神社がある。
若一王子神社は、天平2年(730)の創建であり、後三年の役(1083-87) で八幡太郎義家が奥州へ下向の際、武運長久を祈願するため立ち寄った。その時、裏山の古い松の木に藤の蔓が絡まり、藤の花が咲き誇っているのを見て、「松に花咲く 藤枝の一王子 宮居ゆたかに 幾千代をへん」 と和歌を詠んだ。これが藤枝の名の起こりと言われている。
若一王子神社の西側に曹洞宗の龍池山洞雲寺がある。
洞雲寺の創建は不詳であるが、神亀5年(728)青峰白眼という高僧がこの地を訪れ、裏山の洞窟で断食修行を続け、37日目の暁方この洞窟から白雲が湧き起こり、雷鳴とともに洞窟前の小さな池の中から竜が躍り出たことから、竜池山洞雲寺という名付け一宇を開いたのが始まりと伝わっている。
街道に戻って進むと左手に日蓮宗の円妙山大慶寺がある。建長5年(1253)比叡山や南都奈良の寺院で修行を終えた日蓮上人が、故郷安房国に帰る途中藤枝の芝草と呼ばれた所に一宿した。この時日蓮上人の法力に感応した茶店の夫婦が上人の弟子となり名も道円・妙円と改め、里人と協力して堂宇を建立したのが、大慶事寺に始まりである。
境内には日蓮上人御手植えの推定樹齢700年の黒松 「久遠の松」 などがある。

神明神社 藤枝宿下本陣跡 藤枝宿上本陣跡 瀬戸谷街道道標
街道に戻ると右手に神明神社がある。
創建年等は不詳であるが、駿河記に 「昔岩田山の宮社をここに奉遷す」 とある。一説には中古武蔵国芝へ伊勢神明宮を勧請の時、神霊をここに仮安置した。後に馬士銀杏樹の枝を手折ってその跡にさしたものが根づいて枝葉が繁茂した。現存する銀杏がこれである。
境内には、今拝稲荷大明神、秋葉社があり、傍らに明治天皇藤枝行在所址碑がある
街道右手の東海道藤枝宿絵図の隣の柴田医院駐車場前に藤枝宿下本陣跡がある。
歩道上に 「下本陣跡」 と書かれたプレートが埋め込まれている。
下本陣跡の直ぐ先右手の藤枝タクシー㈱の前に藤枝宿上本陣跡がある。
ここも歩道上に 「上本陣跡」 と書かれたプレートが埋め込まれている。
信号交差点角にある焼津信用金庫を右に入って行くと、左手の民家前に大正4年(1915)の瀬戸谷街道道標が建っている。

月見里神社 西光寺 正定寺 宗伝寺
瀬戸谷街道道標の先を進むと右手に月見里(やまなし)神社がある。
創建年代は不詳であるが、宝暦4年(1754)に再建されている。
境内には、大国神社、奥宮稲荷大明神の境内社があり、また数本のクスの大樹があるが拝殿裏には藤枝市指定天然記念物の二股に分れた大クスがある。
月見里神社の隣に浄土宗の東門山西光寺がある。
西光寺は浄土宗になる前は真言宗の寺院で、瀬戸川西岸瀬古の獅子ヶ鼻山の西光寺平にあった。この真言宗寺院を永享元年(1429)宝誉が浄土宗寺院として再興した。
境内には、地蔵菩薩、如意輪観音、阿弥陀如来がある。
街道に戻ると直ぐ右手に浄土宗の大徳山称名院正定寺がある。
正定寺は、寛正3年(1462)鎌倉光明寺の僧であった信蓮社貞誉によって開創された。
江戸時代、田中藩第14代藩主土岐丹後守頼稔は弁財天を信仰し、たびたび弁財堂に参詣していたが、後に大阪城代に出世したことを記念して本堂の前に松の木を寄進した。この松は 「本願の松」、別名 「延命の松」 と言われている
正定寺の街道を挟んだ反対側に位置する所に日蓮宗の本門山宗伝寺がある。
西光寺は、永享元年(1429)に真言宗から浄土宗に転じ、その後、応永10年(1403)日蓮宗に改宗した。境内には七面堂があり七面大明神が祀られている。

満蔵寺 勝草橋 志太の一里塚跡 龍王神社
宗伝寺の東側に曹洞宗の暁居山満蔵寺がある。
稲川森の小島七郎高久は、焼津田尻宝楽寺五世智然法師のもとで真言密教の修法を受け、稲川森に庵を建立し、行基作の地蔵菩薩を安置し 「曉居山満蔵寺」 と名付けて開創した。その後、永禄12年(1569)に谷稲葉心岳寺四世蒲山孝順によって曹洞宗に改宗した。境内には三仏堂があり、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩が安置されている
満蔵寺から街道に戻ると瀬戸川に架かる勝草橋がある。
勝草橋を渡ると渡り詰めの親橋に田沼街道の解説が刻まれている。田沼街道は勝草橋の渡り詰めから堤防に沿って100mほどのところから相楽までの7里(28㎞)の道で、田沼意次が相楽藩主となったときに拓いた街道である。
向かい側の親柱には、勝草橋の名前の由来が刻まれている。
勝草橋の渡り詰め右手に志太の一里塚跡がある。ここには秋葉神社の石祠と秋葉山常夜燈が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて50里目の一里塚であり、瀬戸川堤から西へ約50m、岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。藤枝市内では、志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。
街道左手の田沼街道沿いに龍王神社がある。
龍王神社は、元禄年間(1688-1703)に干ばつが続いたとき、
ここに水分(みくまり)神を祀って降雨祈願を行ったことが始まりと云われている。

葦中観音堂 名残松 岡野繁蔵生誕地碑 地蔵堂
街道に戻って至誠堂薬局の前の信号十字路を左折すると葦中観音堂がある。
この地に住む老婆の夢のお告げにより、葦の中に埋もれていた観音像が見つかり、その後、元禄7年(1694)観音様を篤く信仰する稲川村と志太村の信者達が観音様を安置する堂字を建立したのが葦中観音堂の始まりと云う。また明治43年(1910)の瀬戸川氾濫の時に、この観音堂は水害から免れたので 「水除観音」 とも呼ばれている。
街道の右手の漆畑登記測量事務所の前あたりから街道の名残松が点在している。 内瀬戸谷川に架かる稲川橋を渡ると右手の歩道脇に岡野繁蔵出生地碑が建っている。
岡野繁蔵は、裸一貫から南洋のデパート王となった。21歳でインドネシアのスマトラ島に渡り、大信洋行を興し雑貨貿易商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めたが、太平洋戦争で止む無く日本に引き揚げた。
青木五叉路で横断歩道橋を渡って進むと街道左手の南新屋会館の脇に地蔵堂がある。
ここには庚申塔、馬頭観音などの石造物が安置されている。

津島神社 休憩場所 名残松 田中藩領榜示石蹟
街道左手の一段高くなった場所に津島神社がある。
街道から6段の石段を上がると鳥居があり、小さな社殿がある。社殿には 「御神徳」 と書かれた扁額が掛かっており、御祭神は建速須佐之男大神とある。
県道356号線を渡った左角に 「さわやか住宅㈱」 が設置した休憩の長椅子がある。
傍らに 「藤枝は東海道の22番宿で城下町として栄えました。付近の追分、一里塚といった地名が街道の名残を今に伝えています。松並木を渡る風の中しばしの休憩にご利用ください」 と書かれた立札が建っている。
休憩場所から先に街道の名残松が点在している。 街道に並ぶ名残松の前に田中藩領榜示石蹟碑が建っている。瀬戸新屋村は、田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す傍示石を建てた。
ここにあった榜示石は、約3mの石柱で 「従是東田中領」 と刻まれていた。榜示石は田中城主本多正意が家臣の書家・薮埼彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。

秋葉神社 鏡池堂 水神社 古東海道蹟
田中藩領榜示石蹟の先で信号十字路を渡ると左手の 「瀬戸新屋ふれあい広場」 の脇に秋葉神社がある。 街道が県道222号線と交差するところに鏡池堂がある。
昔、鏡池堂の西側の水神社近くに鏡ヶ池という丸い池があり、この池に棲む悪竜が村人を苦しめたため、鬼岩寺2世静照上人が退治した。村人は悪竜の供養のため、承安元年(1171)に玄昌行者を招いて池の畔に庵を建て、鏡ヶ池から出現したという六地蔵を安置した。
境内角には、六地蔵尊を刻んだ石碑が建っている。
鏡池堂前から右手(西)の坂道を下って行くと水神社がある。
創建年代は不詳であるが、瀬戸新屋に創建された当時鎮座されたのは水神宮・三宝荒神・飽波の三体であった。その後、天和3年(1683)筑前国沖津島より宗像三前大神を勧請し水神と称した。
境内には、津島神社の境内社がある。
街道に戻ると直ぐ右手に古東海道蹟がある。
この碑のところから細い道が瀬戸山の上を通って、山を下ると内瀬戸の部落へ通じていた。
この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。

東海道追分 名残松 地蔵堂 染飯茶屋跡
古東海道蹟の斜向かいの路地角に東海道追分碑が建っている。
ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と山裾に沿う旧東海道がある。瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵のところを通るようになったのは、開拓が進んでからである。当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋へと通っていた。
街道を進んで信号T字路を過ぎると街道の名残松が数本立っている。 名残松の先の右手段上に地蔵堂がある。
こには延命地蔵尊が安置され、傍らに庚申塔、僧侶の墓石などが建っている。
地蔵堂の直ぐ先の石野モータースの前に染飯(そめいい)茶屋跡がある。
瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売り始めたと言われ、天正10年(1582)の信長公記に、その名が記されている。染飯とは強飯をくちなしで染め薄く小判型にしたものであったという。くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だった。染飯を売る時の包み紙に押した版木が藤枝市の指定文化財として石野家に残っている。

千貫堤跡 育成舎跡 田中藩領榜示石蹟 松並木
染飯茶屋跡の向かいの路地に千貫堤跡がある。
寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山をはさみ本宮山まで約360mにわたり、高さ3.6m、巾29mの大堤防を一千貫の労銀を投じて築造したのでこの名がある。
千貫堤跡を過ぎると街道右手に育成舎跡がある。
明治初年の小学校跡である。明治5年(1872)学制が発布され、明治7年(1874)に上青島村、下青島村、内瀬戸村、瀬戸新屋村、久兵衛市右衛門請新田村の5ヵ村が連合し、上青島村に公立小学講を創設し、育成舎と名付けた。
街道を進むと街道の名残松の手前左手に田中藩領榜示石蹟碑が建っている。
江戸幕府は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたため、藩境に境界を示す傍示石を建てた。
田中藩領上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、この標石を建てた少し前、上青島村の一部が旗本日向鉄太郎の所領となっている。この標石は約3mの石柱で 「従是西田中領」 と刻まれていた。
田中藩領榜示石蹟碑の先に10数本の松並木がある。

青島酒造 八幡宮 常夜燈 上青島の一里塚跡
松並木を過ぎると街道右手に明治元年(1868)創業の青島酒造がある。
酒造蔵には、銘柄 「喜久酔
(きくよい)」 が記されている。
東光寺谷川の右手堤防脇に八幡宮がある。
創建年代等は不詳であるが、ご祭神は誉田別命(応神天皇)、玉依姫目命、息長帯姫命(神功皇后)である。
東光寺谷川に架かる瀬戸橋を渡ると、渡り詰め右手に御堂に安置された天保4年(1833)の秋葉山常夜燈があり、御堂の脇には御小休所址碑が建っている。 街道を進むと松並木の間に上青島の一里塚跡があり、東海道(上青島)一里塚跡碑、東海道道標が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて51里目の一里塚である。

東海道道標 昭和天皇御巡察碑 栃山橋 監物川
一里山信号交差点で国道1号線に合流して僅かに残る松並木の道を進み、左手にある割烹料理 「魚一」 を過ぎると、その先のY字路右手に東海道道標が建っている。 東海道道標から旧道を進むと道悦島西交差点で国道1号線に合流し、その先で左側にある丸三一言商店の前にあまり見かけない昭和天皇御巡察碑が建っている。 昭和天皇御巡察碑の直ぐ先に大津谷川に架かる栃山橋がある。
この橋は、江戸時代には土橋で、長さ36.6m、巾5.4mで橋杭は3本立て7組で支えていた。この橋の東端が、当時の道悦島村と島田宿の境となっていた。
栃山橋を渡った先の島田市御仮屋横断歩道橋の下に監物川が流れている。
寛永12年(1635)島田宿は田中藩の預所となり、田中藩主であった水野監物忠善の支配下に入った。志太郡一帯を支配することとなった監物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用水路を造り、大井川の水を引き入れた。感謝した農民たちは、この水路を 「監物川」 と呼び、ここに架かる橋を 「監物橋」 と呼んで後世に残した。

東海道道標 東見附跡 東海道道標 須田神社
御仮屋信号Y字路の手前に 「東海道道標 島田宿」 が建っている。
街道は、Y字路で国道1号線と分れて左に進んで行く。
街道をどんどん進んで行くと本通り7丁目信号交差点の手前右手に東見附跡がある。
ここ島田宿の東入口には、例の少ない枡形の見附が設けられていた。広さは約80㎡ほどで、ここに宿場の番人を置いたという記録が無いので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方役人が大名行列の送り迎えをした場所であったと言われている。
本町7丁目信号交差点角の島田信用金庫前に東海道道標が建っている。
傍らには、島田信用金庫が造った金運上昇地蔵尊が安置されている。この角から斜め東に進んで行くと大井川に架かる世界一長い木造歩道橋で、 全長897.4m、通行幅2.4mの 「蓬莱橋」 がある。
島田信用金庫の斜向かいの路地を入って行くと須田神社がある。
江戸初期、旅の修験者が代官長谷川藤兵衛の知遇を得て7丁目天王小路西角に青面金剛の庚申堂を建てた。その後、この地に牛頭天王を勧請して天王社を創建し、庚申堂も天王社の隣に遷座した。このため彼は 「勧請院」 と呼ばれた。明治42年(1909)に須田神社と改称された。境内には、庚申堂、勧請院堂、御神木のクスノキがある。

お囲い土手跡 林入寺 長徳寺 島田宿一里塚跡
須田神社の裏側に流れる水路脇にお囲い土手跡がある。
お囲い土手は、大井川の氾濫から島田宿の町並みを守るために築かれたもので、周囲を補強する松も植えられた。その後、外部に新たな堤防が完成し、開墾地や人口が増加した結果、次第に多くが消滅したが、
須田神社裏には、僅かに土手の一部が残っている。
須田神社の西側に曹洞宗の佛殿山林入寺がある。
ある年、島田宿にたちの悪い流行風邪が広がって困っていたところ、和尚の夢枕にご本尊が現れ、境内の梅の花と葉を煎じて飲ませようお告げがあった。村人にこれを飲ませたところ、流行風邪は収まり、以後、境内にあるこの梅を 「薬梅」 と呼ぶようになったという。
林入寺の北側に曹洞宗の明王山長徳寺がある。
創建年代等は不詳であるが、境内には福地蔵尊、如意輪観音、七福神などの石造物がある。
街道に戻ると右手の虎岩文具店の前に島田宿一里塚跡がある。
通常一里塚は、街道の両側に対で築かれたが、島田一里塚は北側のみであったという。
ここは江戸日本橋から数えて52里目の一里塚である。

甘露の井戸水 島田宿下本陣跡 御陣屋跡 御陣屋稲荷神社
島田宿一里塚跡の斜向かいの佐の幸製茶工場の前に甘露の井戸水がある。
ここは昭和の初め頃に甘露亭という料亭があり、この掘り抜きの井戸水は美味で料理・洗水・風呂など全般に使用していた。水源は南アルプスの雪解け水が地下へ浸み込み約100年をかけて湧き出る大井川の伏流水である。
永年枯れることが無く、現在はお茶の冷蔵庫の冷却水として使用しているという。
街道右手のからくり時計のところに島田宿下本陣跡(置塩藤四郎家跡)がある。 からくり時計の奥を進むと左手に島田代官の御陣屋跡がある。
島田御陣屋は、駿河国府中城主徳川頼宣の代官であった長谷川藤兵衛長親が、元和2年(1616)に建てた屋敷が始まりで、その子藤兵衛長勝が、寛永19年(1642)幕府の代官職に任命され、その屋敷が御陣屋となった。
以後、明治4年(1871)の静岡藩郡政役所まで続いた。
御陣屋跡の先に御陣屋稲荷神社がある。
島田代官所が、野田から柳町に移った翌年の元和3年(1617)に代官長谷川藤兵衛長親が地域住民の安泰と五穀豊穣を祈るため代官所の屋敷内に稲荷祠を建立したのが始まりである。
寛政6年(1794)代官所が駿府に統合された後も陣屋が置かれていたので御陣屋稲荷神社と呼ばれている。

島田宿中本陣跡 島田宿上本陣跡 塚本如舟邸阯 芭蕉句碑
からくり時計の先の天野屋呉服店の前に島田宿中本陣跡(大久保新右衛門家跡)がある。
天野屋呉服店の隣のホテル割烹三布袋の前に島田宿上本陣跡(村松九郎治家跡)がある。 本陣跡の向かいの静岡銀行島田市店の前に芭蕉が江戸へ向かう途中に立ち寄った塚本如舟邸跡がある。
ここには如舟と芭蕉の連句が刻まれた石碑がある。
本通り2丁目交差点角の島田信用金庫本店前に芭蕉句碑がある。
句碑には 『するかの国に入て 「するかちや はなたち花も ちやのにほひ」 はせを 』 と刻まれている。

普門院 大井神社 島田宿西見附跡 正覚寺
本通り2丁目交差点を過ぎて右手2本目の通りを北に入ると曹洞宗の円通山普門院がある。創建年代等は不詳であるが、境内には朝顔日記に出て来る戎屋徳右衛門の墓、地蔵菩薩の陽刻碑などがある。
普門院の前の扇町公園内は、「平和之礎」碑が建っている。終戦の近づいた昭和20年7月26日普門院付近に長崎型原爆の模擬爆弾が落とされ、多くの犠牲者がでた。
普門院から街道に戻ると右手に大井神社がある。
創建年代は不詳であるが、はっきりと島田に鎮座の記録が残っているのは建治2年(1276)で、その後、大井川の度々の洪水によって神社の位置が変わったようである。
境内には春日神社・恵比寿神社・天満宮などの境内社があり、また多くの文化財や建造物がある。
大井神社鳥居の向かいに島田宿西見附跡がある。
島田宿の西入口には、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない枡形の見附が設けられていた。ここに宿場の番人を置いたという記録は無いので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったと言われている。
西見附跡の角を左に入ると日蓮宗の正覚寺がある。
開創年代等は不詳であるが、宝暦6年(1756)には17世日達が本堂を建立し、21世日染の代には大津通りの七面堂を移転し、現在は開運堂となっている。境内には稲荷神社、浄行菩薩などがある。

大善寺 地蔵堂
街道を進んで行くと県道64号線との交差点角に浄土宗の二尊山成就院大善寺がある。
大善寺は、寛永年間(1624-43)西入法師による開創と云われている。
寺宝には閻魔大王像、釈迦像、紀伊国屋文左衛門寄進の延命地蔵尊がある。
特種東海製紙㈱の前の信号を左に入ると公園の脇に地蔵堂と稲荷神社がある。
地蔵堂には北向き地蔵尊が安置されている。
本日は、ここで終了し島田駅前まで戻り宿泊する。

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