菊川坂石畳は、平成12年(2000)の発掘調査において、江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では、箱根に次ぐ二例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。
 菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年(1190)源頼朝上洛の記事に 「13日甲午於遠江国菊河宿・・・」 とあり、これが菊川の里の初見です。
 承久3年(1221)の承久の乱で、鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗之卿が鎌倉へ送られる途中、この菊川の里で詩を残しています。
 更にその100年後、元弘元年(1331)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。
 江戸時代には、西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる 「間の宿」 として多くの旅人たちの利便を図ってきました。
 このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として、大切な役割を果たしながら、ロマンと重みのある歴史を刻んできました。

  中納言宗行卿の詩
 昔南陽県菊水 汲下流而延齢
 今東海道菊河 宿西岸而失命

  日野俊基の歌
 古も かかるためしを 菊河の おなじ流れに 身をやしづめん

(島田市教育委員会)

菊川坂石畳とi間の宿菊川説明

前方に菊川集落が見えている

菊川坂の西入口