山田屋本陣(三番本陣)跡説明

 本陣とは、江戸時代の各宿場に大名・公家・高僧などの宿泊や休憩場所として設けられた施設です。
 元禄~正徳(1688-1715)頃には、本陣は柏屋本陣(一番本陣)・佐塚本陣(二番本陣)の二軒で、山田屋は脇本陣でした。
 徳川家の本陣は、はじめ柏屋でしたが、貞享元年(1684)、大納言参向のとき、大井川満水を浜松まで飛脚を遣わして注進すべきところを怠ったため、宿泊所は山田屋(三右衛門)に変更されました。おそらくそれ以後、山田屋が三番本陣として格上げになったものと思われます。
 寛政3年(1791)、西は一里塚から東は下十五軒まで焼失した大火災で本陣・脇本陣・旅籠屋52軒すべてが焼失しました。その10年後の記録では、三番本陣の山田屋と脇本陣はまだ再建されていませんでした。
 天保14年(1843)の記録では、山田屋が三番本陣として建坪、門構え、玄関付、表間口六間と記されています。
 嘉永7年(1854)の大地震で柏屋本陣は半壊、佐塚屋本陣と山田屋は全壊し、それ以後、金谷宿では本陣施設は機能していなかったようです。そして明治3年(1870)民部省令により、本陣はすべて廃止されました。
(島田市教育委員会)