中納言宗行卿詩碑
日野俊基歌碑
昔南陽懸菊水 汲下流而延齢
今東海道菊河 宿西岸而失命
古(いにしえ)も かかるためしを菊川の おなじ流れに 身をやしづめん
昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ
今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う
承久の変から約100年後の正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宗行の往時を追懐して一首の歌を詠んだ。
源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり、公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の7月10日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に詩を書き残した。
八挺鉦 ・ 与茂七起し ・ 柳井戸 ・ 矢の根鍛冶
白菊姫伝説の菊石
トイレの壁面に4つの昔話が掲載されている
間の宿は、本宿と本宿の間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜を図って置かれた。通常2宿間の距離は3~4里であるが、金谷宿と日坂宿の間のように急所難所が続く場合は短くとも特別に間の宿が置かれた。
間の宿 菊川