金谷大橋(西入口土橋)跡説明

 現在の不動橋は、江戸時代には 「西入口土橋」 「金谷大橋」 と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)、横幅2間半(約4.5m)、橋桁は3本4組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土をつき詰めて造られた橋をいいました。「御普請所」 となっていて、約3年目毎に代官所の負担で修理や架け替えが行われました。
 金谷坂を下ってきた大名行列は、橋の北側にあった休茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。またここから上りは、金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には 「どじょう屋」 という一膳飯屋があり、そこが 「駕籠仕立所」 となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰所になっていました。
(島田市教育委員会)