三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が、掛川城主として文禄年間(1592-95)に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として、伏見稲荷を勧請されました。
 三光稲荷の由来は、南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年(1336)、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる12月21日の深夜暗闇から難渋され、途中、伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、
 ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり われにかさなん みつのともし火(三の光)
と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ、御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり、伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には 「導稲荷」 があり、東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は、吉野より勧請されたといわれ、こうした御利益から大手厩の構内にお祀りされました。

三光稲荷社殿

三光稲荷由来

鳥居に掛かる三光稲荷の扁額