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東海道   (掛川~袋井)


平成28年5月5日(木) ☀|☁  掛川~袋井  11.2㎞
本日は、今回の街道歩きの最終日のため掛川宿から一つ先の袋井宿までの短距離である。袋井には昼過ぎには到着の予定である。袋井は日本橋から数えて27番目の宿場で東海道53次の丁度中間に位置する宿である。

日の出 掛川城 緑町水天宮 清正堂
掛川駅前のビジネスホテルでは部屋が東向きであったため、早朝5:02に日の出を見ることができた。
本日も雲ひとつなく晴れている。
昨日は完全な逆光でよく見えなかったが、今朝は綺麗な掛川城が見えた。
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣が作られた。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊され、平成5年(1993)城絵図や古記録を元に木造により復元整備された。
掛川城から中町交差点の清水銀行前に出る途中に緑町水天宮がある。水天宮は、元々福岡県久留米市の久留米藩有馬家の屋敷神として祀られてきた。江戸時代第9代藩主頼徳公の時、赤羽根の有馬藩上屋敷に分霊され、以来庶民の信仰を集めた。緑町水天宮は、この東京水天宮から分霊して、明治18年(1885)掛川緑町商家に鎮座していたものを移したものである。 緑町水天宮から県道254号線に出ると中町交差点に向かって右手に日蓮宗の常住山正願寺の境外佛堂の清正堂がある。
清正堂は、万延元年(1860)木根万蔵邸に祀られていた清正公像を移転して建立された。戦国武将の加藤清正公が神格化され、守護神として祀られている。

大祭絵巻 円満寺 徳雲寺 菩薩院十王堂
街道に出ると清水銀行の向かいのビルに東海道53次掛川宿大祭絵巻の壁画がある。
掛川宿大祭絵巻は3年に1度の祭りで、県の無形民俗文化財に指定されている 「瓦町のかんからまち」 の3頭の獅子を先導に城下町を巡行し、歌舞伎衣装を身につけた 「西町の奴道中」、「仁藤町の大獅子」 が旧東海道を歩き、歴史絵巻を繰り広げる。
中町西信号交差点を先に進むと右手に浄土真宗大谷派の法林山円満寺がある。
円満寺は、南西郷久保村にあった寺を天正年間(1573-91)城外に移築し、さらに慶長2年(1597)城外の総堀造成のため現在地に移築された。この山門は、蕗(富貴)の門といい、かつて掛川城の内堀畔にあり、本丸・二の丸・三の丸へ通じる要衝にあった門である。
円満寺を過ぎると街道左手に曹洞宗の紅玉山徳雲寺がある。
徳雲寺は元真言宗であり、創建年代は不詳であるが、真如寺二世巨山聚鯨和尚による開山と伝えられている。境内には、観音堂があり楊柳観音が安置され、弁財池の周囲には馬頭観音、菊地良貞の碑などがある。
徳雲寺を出た先の小川に沿った道を左に入ると、十王公会堂の裏に菩薩院十王堂がある。
菩薩院十王堂は、慶安元年(1648)掛川城主北条出羽守氏重が建立したもので、現在の御堂は大正10年(1921)に再建されたものである。
御堂には子安延命地蔵菩薩を中心に右側に閻魔大王、左側に弘法大師の像が安置されている

東光寺 十九首塚 水神宮 逆川橋
菩薩院十王堂を過ぎてY字路となった街道を右に進むと直ぐ右手に曹洞宗の醫王山東光寺がある。
東光寺は養老年間(717-24)行基菩薩が開基の真言宗の草庵であったが、天文年間(1532-55)永江院四世雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗され、東光寺と改称した。
境内には成田山不動堂、豊川稲荷社などがある。
東光寺本堂前の道を左に進むと十九首(じゅうくしょ)公民館の裏手に十九首塚がある。
平将門を討ち取った藤原秀郷が京都に凱旋するべく将門以下の主立った一族郎党の首級を持って西へ向かっていたが、ここで勅使の首実検が済むと、勅使はこれらの首は都に持ち込むことはならぬということで、この地に埋葬したという。
街道に戻って進むと右手の十九首水源地公園の奥に水神宮がある。
ここは大正10年(1921)水源として深さ22m~25mの井戸が掘られ、掛川市初の水道が完成した場所である。
十九首水源地公園の先で逆川に架かる逆川橋を渡っていく。

大池橋 秋葉神社遥拝所 東海道道標 芭蕉天神宮
逆川橋を渡った先の二瀬川信号交差点を左折して進むと倉貫川に架かる大池橋がある。 大池橋を渡ると4筋の道が放射状に延びている。
右から2つ目の道は秋葉街道といわれ、火防の神様で有名な秋葉山へ通じる道の入口である。この入口に平成22年(2010)に落成された秋葉神社掛川遥拝所がある。
秋葉山まではここから約35km程ある。
大池橋の渡り詰め左手に延びているのが旧東海道であり、川沿いに東海道道標と大池橋・秋葉街道解説がが建っている。 鳥居町公会堂を過ぎると左手の路地に芭蕉天神の標柱が有り、入って行くと右手に芭蕉天神宮がある。
この芭蕉天満宮は、大池村下耕地内の富士講の人達が、富士浅間大社に詣でた帰路、駿河国内房大晦日 (現在の富士宮市内房字大晦日) の芭蕉天満宮より勧請され、当地に祀ったものである。

白山神社 宗心寺 津島神社 大池一里塚跡
芭蕉天満宮を過ぎると天龍浜名湖線のガードをくぐった先の右手に白山神社がある。
創建年代・由緒等は一切不詳である。
白山神社に近接して日蓮宗の大光山宗心寺がある。
宗心寺は、寛平6年(894)頃の創建と云われ、掛川では最も古い寺院の一つである。文永年間(1264-75)鎌倉の大光山本圀寺の好堅院日教聖人が当地に布教した折、真言宗から日蓮宗に改宗した。
ご本尊は日蓮上人木像で、境内には七面堂などがある。
街道を進んで信号交差点手前の路地を右に入ると左手に津島神社がある。
創建年代・由緒など不詳であるが、境内には掛川市指定保存樹木のエノキが立っている。
津島神社の先の信号交差点左手の蓮祐寺参道口に大池の一里塚跡がある。
ここには東海道道標 「大塚一里塚跡」 と裏面に 「為一里塚萬霊供養」 と刻まれた南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて59里目の一里塚である。

蓮祐寺 名残松 曽我鶴酒造 高松神社
大塚一塚跡の奥に日蓮宗の一乗山蓮祐寺がある。
創建年代等は不詳であるが、境内にはいくつかの南無妙法蓮華経題目碑が建ち、浄行菩薩などがある。
街道左手の静岡ガスセンターの前から数本の名残松が立っている。
松並木の先の和光橋付近で逆川に近接する。
細沢公会堂を過ぎて街道が左に大きくカーブする右手に慶応3年(1867)創業の曽我鶴酒造がある。
主要銘柄には、萩の蔵・酒楽々・曽我鶴などがある。
曽我鶴酒造の直ぐ先の国道1号線掛川バイパスの高架手前の右手に高松神社がある。
創建年代等は不詳であるが、境内には稲荷神社の境内社がある。

旧道口 常夜燈跡 名残松 善光寺橋
高松神社の先は、国道1号線袋井バイパスで分断されているので、袋井バイパスの高架をくぐって迂回し、高松神社前から斜め直線上に当たる旧道に出て進んで行く。 街道を進むと右手生垣の脇に常夜燈跡がある。
一見丸い石が乗っているので道祖神かと思っていたが、近くにいた住民に聞いたところ、以前あった常夜燈が崩落して修復せずに礎石に丸い石を置いたものだという。
常夜燈跡の直ぐ先で東名高速道路の高架をくぐると、垂木川の手前に街道の名残松がある。 名残松の先には、垂木川に架かる善光寺橋がある。
善光寺橋には、車道とは別に歩道橋が架かっている。

善光寺 仲道寺 椎の木茶屋 松並木
善光寺橋を渡ると右手に善光寺、同じ境内に仲道寺がある。
善光寺は、延暦9年(790)東伐の勅命を受けた坂上田村麿が、伝道大師(最澄)から授かった一体の阿弥陀如来を守り本尊として奥州へ向かう途中、この地で討伐軍が難病に罹り、阿弥陀如来に願を掛けたところ全快したことから、ここに守本尊 「阿弥陀如来」 を祀る堂宇を建てたのが始まりと云われている。
善光寺の奥に夏涼山仲道寺がある。
善光寺は、享保18年(1733)境内に本堂が建立されたが、享和2年(1802)火災によって焼失した。その翌年(1803)には復興された。
この普請の際に、江戸と京都から人足たちが測歩したところ、この寺の辺りで両者が出会ったとされ、以後 「東海道の真ん中」、すなわち「仲道寺」 とも称されるようになったと伝えられている。
仲道寺を出ると右手に割烹料理店 「椎の木茶屋」 がある。
かつて掛川藩主太田備中守の御休息所として建てられ、後に下附されたという由緒ある茶屋で、屋号は原野谷川に架かる同心橋の袂に立っていた大きな椎の木に因んで命名されたと云われている。
椎の木茶屋前からは水田の中央を通る道となり、両側に松並木が続いている。

道標 金西寺 道標 北野天満宮
松並木が切れたところの右手に自然石の道標がある。
道標には、表面に 「従是北和田岡村」、裏面には 「御即位紀念大正4年11月和田岡村青年會」 と刻まれている。
自然石の道標の直ぐ先左手に南泉山金西寺がある。
創建代等は不詳であるが、ご本尊は薬師瑠璃光如来である。ここ原川の集落は間の宿であり、金西寺の原川薬師と呼ばれる阿弥陀仏へ供えるための薬師餅を売る茶屋や酒屋などで賑わっていたという。
境内には観音菩薩・地蔵菩薩などたくさんの石造物がある。
金西寺の先の十字路右角に自然石の道標が建っている。
道標には、表面に 「是従和田岡村 原谷村ヲ経テ森町ニ通ス 大正4年」、裏面には 「御大典紀念原川青年會」 と刻まれている。
道標を右に進んで行くと左手に北野天満宮がある。創建代等は不詳であるが、境内には覆屋に安置された常夜燈がある。

同心橋 花茣蓙公園 駕籠 松並木
道標の先で国道1号線袋井バイパスの高架をくぐって左手から階段を上がって原野谷川に架かる同心橋を渡って行く。
同心橋の名前は、大名行列が昼食を採る際に、随行した同心たちが河原で昼食を採ったことからその名が付いたと云われている。
島同心橋の渡り詰めに東海道道標があり、道標前の坂を下ると右手に花茣蓙公園がある。ここには明治16年(1883)の道標「従是西東海道御本可睡三尺坊大権現」、木造屋形の秋葉山常夜燈が建っている。
ここは江戸時代には、旅人が休息する立場として知られていた。
街道を進むと松並木の手前左手に駕籠の形のゴミ集積所がある。
駕籠の周囲には、袋井丸凧、名栗の花茣蓙などが描かれている。正面の右扉には、十舎一九の 「道中膝栗毛」 の一節が記されている。
「~瀬川を渡れば早名栗 松並木を西に見て立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓 ここは布井の宿までの間の宿旅籠屋のあり 名物の花ござを売る店が軒を連ね~」
駕籠型のゴミ集積所の先から東海道松並木が続いている。
松並木の間には、東海道松並木解説、歌川広重の行書東海道53次之内袋井、歌川芳員の東海道53次之内袋井が建っている。

富士浅間宮赤鳥居 松並木のお花 妙日寺 久津部一里塚跡
松並木の右手にある道路角に富士浅間宮の赤い両部鳥居が建っている。
ここには富士浅間宮標柱・道標、赤鳥居の解説板が建っている。
富士浅間宮赤鳥居の先も東海道松並木が続いており、松並木の間には黄色い花が咲いている。 街道を進んで行くと袋井東小学校の手前に日蓮宗の貫名山妙日寺がある。
妙日寺は、正慶元年(1332)身延山久遠寺の日善によって開かれた古刹である。
日蓮宗を開いた日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族である貫名氏の代々の邸宅跡と云われる。境内には、日蓮上人の両親を顕彰する為に建立された 「妙日尊儀・妙蓮尊儀供養塔」 (市指定文化財) がある。
妙日寺を出ると左手の袋井東小学校の校門脇に久津部の一里塚跡がある。
明治10年(1877)までは老松が聳えており、旅人のよい目印しになっていたとのことであるが、袋井東小学校創立百年を記念して復元された。
ここは江戸日本橋から数えて60里目の一里塚である。

油山寺道標 秋葉山常夜燈 宇刈村道標 法多山道標
袋井東小学校を過ぎて右手一本目の路地角に油山寺道標が建っている。
道標には、「従是管ヶ谷油山」 と刻まれており、大正4年(1915)久津部青年會が建てたものである
続いて右手の駐車場入り口に秋葉山常夜燈が建っている。
この常夜燈は、昭和28年(1953)に久津部地区内の村中安全を祈って建てられたものである。
秋葉山常夜燈の先の右手T字路の入口両脇に、大正4年(1915)の宇刈村道標と八幡社入口道標が建っている。
この道標から50m入ると右手に袋井近代教育発祥の地・用行義塾跡がある。
八幡社入口道標の直ぐ先左の路地角に大正4年(1915)の法多山道標が建っている。
道標には、「従是下貫名
法多山」 と刻まれており、大正4年(1915)久津部青年會が建てたものである。

油山寺道標 名残松 松並木 七ツ森神社
JA遠州中央を過ぎた先の右手路地角に油山寺道標が建っている。
道標には、「あぶら山ミち二十七丁」 と刻まれており、明治37年(1904)に建てられたものである。
城所医院の前に名残松があり、その手前に初代歌川広重の 「隷書東海道五十三次之内袋井」 画がある。 名残松から160~170mほど進んだサガミ袋井店前辺りから東海道松並木が始まる。 サガミ袋井店の隣に七ツ森神社がある。
七ツ森神社の創建年代等は不詳であるが、祭神は久努国造、大己貴命であり、天明年間の 「東街便覧図略」 には、社名の由来となった七つの塚とともに祠が描かれている。
境内には、樹回り9mのスダジイ、境内社の稲荷神社・大日神社がある。

広重画 スズキ化石資料館 東海道道標 秋葉山常夜燈
松並木の街道を進むと左手に 「双筆五十三次袋井」 があり、松並木が切れる辺りに 「東海道松並木」 の解説がある。
解説の脇の北へ延びる道路口には、文政11年(1828)の油山寺道標と可睡斎道標が建っている。
県道413号線に合流する手前右手にスズキ化石資料館の看板を掲げた家がある。
庭先に踏み込んでみると解説があり、ここにある化石ブロックは掛川層群の主に大日層と呼ばれる今から約220万年前の地層から産出したものだという。
県道413号線との合流地点に東海道道標 「東新屋」 が建っている。
その先50m程先で新屋交差点を左折した最初の右手路地角に東海道道標 「西新屋」 があり、街道はこの路地を右に入って行く。
街道を進むと最初の十字路右手角に木造屋形の秋葉山常夜燈が建っている。
常夜燈の後ろには、秋葉神社の小社が建っている。

東海道道標 袋井宿東口 東海道どまん中茶屋 秋葉山常夜燈
秋葉山常夜燈の先で二車線道路に突き当たった左手に東海道道標 「市役所前」 が建っている。
道標の向かい側は袋井市役所、斜向いが袋井商工会議所で、街道は商工会議所を右に曲がって行く。
袋井商工会議所を右に曲がった左手に袋井宿東口があり、街道は直ぐ先で天橋を渡っていく。
ここには袋井宿碑、阿まはし親柱、袋井宿解説が建っている。
天橋を渡った右手に東海道どまん中茶屋がある。
この茶屋は、初代広重が描いた 「袋井出茶屋図」 をモチーフに平成11年(1999)に建てられたものである。茶屋内には丸凧、角凧などが飾られ、お茶などのおもてなしが受けられる。
どまん中茶屋の角を右折して進んで行くと右手の路地角に台座と火袋が新しい秋葉山常夜燈が建っている。
竿石には天保8年(1837)と刻まれており、台座の脇の地面に 「玄明小路」 と刻まれたプレートが埋め込まれている。

白髭神社 観福寺 袋井宿東本陣跡 袋井宿場公園
秋葉山常夜燈から程なく右手に白髭神社社標があり、社標の奥に進むと県道253号線を渡ったところに白髭神社がある。
創建年代は不詳であるが、正徳5年(1715)正遷宮となり、嘉永元年(1848)本殿が建立され、幕末の建築様式を残している。
境内には、諏訪神社、秋葉神社、伊勢神宮、津島神社などの境内社がある。
白髭神社前の県道253号線を西に進んだ県道275号線との突当りに曹洞宗の袋井山観福寺がある。
観福寺は、延歴12年(739)開基の天台法華宗寺院が始まりで、建久3年(1190)源頼朝が延命地蔵菩薩を奉安、天正17年(1589)徳川家康が曹洞宗可睡斎仙麟等膳和尚を迎え開山した。山号は袋井の地名の発祥といわれ、東海道の中間に位置することから 「へそ寺」 と呼ばれている。
街道に戻ると静橋北交差点の手前右手に袋井宿東本陣跡がある。
ここには冠木門のモニュメントが建ち、その手前と奥に本陣跡の解説が有る。
静橋北交差点の手前左角に袋井宿場公園があり、袋井宿絵図案内や看板などがある。
また、門をくぐると中央に噴水、東屋があり、休憩するには有難い場所である。

問屋場跡 袋井宿名所案内絵図 天白神社 袋井宿西本陣跡
静橋北交差点を渡った左手に問屋場(人馬会所)跡がある。
ここは袋井宿で継立業務を行っていたところで、文化年間(1804-17)には、街道の北、中本陣の西側にあったといわれている。
街道の右手には一見ゴミ取集所とは分からない建屋があり、その前に袋井宿名所案内絵図が建っている。
脇にある松の木は、袋井市村岡利夫氏寄贈のクロマツである。
袋井宿名所案内絵図の角を北に入って行くと右手に天白神社がある。
創建年代は不詳であるが、境内周囲はきれいに整備されている。
街道に戻ると袋井宿名所案内絵図の隣の家の前に袋井宿西本陣跡がある。
ここは大田家が務めていた西本陣跡で、玄関前に建っている標柱は、後ろの壁と同化して一見して判別でないので通り過ぎてしまいそうである。

丸凧天野屋 高札場跡 御幸橋 朝日妙見堂
西本陣跡の直ぐ先右手にどまん中丸凧ギャラリー天野屋がある。 御幸橋の手前に高札場跡があり、高札が復元されている。
ここには昭和42年(1967)に再建された寛政年代の常夜燈がある。
高札場の前に宇刈川に架かる御幸橋がある。
御幸橋の親柱は常夜燈の形をしている。
御幸橋の手前の土手道を左に進んで行くと下流の本川橋の手前に寛政12年(1800)の秋葉山常夜燈があり、左手民家の奥に朝日妙見堂がある。
ここには妙見菩薩が祀られており、御堂脇には稲荷神社、南無妙法蓮華経題目碑などがある。

御料榜示杭跡 法多山別院 五十三次之内袋井 十二所神社
街道に戻って御幸橋を渡ると左手の袋井中学校への道の中央に御料榜示杭跡がある。
この榜示杭跡標柱には 「従是西掛川藩領川井村、従是東天領袋井宿」 と記されており、側面に 「万葉歌碑(袋井中学校正門内)」 と記されている。
御料榜示杭跡の先右手に法多山尊永寺川井別院がある。
法多山は、神亀2年(725)聖武天皇の勅により行基上人が開山した高野山真言宗別格本山である。
ここには馬頭観音が安置され御堂と稲荷神社があり、街道に法多山道 「従是50町」 という道標が建っている。
法多山尊永寺川井別院の斜向かいに春興五十三駄之内袋井と東海道五十三次之内袋井之図が建っている。
春興五十三駄之内袋井は、葛飾北斎が生涯に描いた十一種類の東海道風景画の一つで上部に三首の狂歌が添えられている。東海道五十三次之内袋井之図は、「保永堂版東海道五十三次之内袋井」 を模した出茶屋を背景に、荷を背負い、杖をつき、先を急ぐ女性の旅人を描いている。
街道を進んで袋井中学校北交差点を左に進むと十二所神社がある。
十二所神社は、紀州熊野権現より天神七代地神五代合わせて十二柱を祭神としたものである。慶安2年(1649)一宮監物より寺社奉行に村社とした届出の文書があり、御祭神は、猿田彦命・伊弉諾尊である。
境内には光明山常夜燈、秋葉山常夜燈などがある。

宗円寺 澤野医院記念館 寺沢家長屋門 津島神社
袋井中学校北交差点から先に進み、一本目の路地を北に進むと県道413号線に面して曹洞宗の陽福山宗円寺がある。
宗円寺の創建年代等は不詳であるが、本堂隣の薬師堂には 「川井妻薬師」 と呼ばれる薬師如来立像(市指定文化財)があり、境内には不動明王、如意輪観音、十一面観音などがある。
街道に戻ると左手に澤野医院記念館がある。旧澤野医院は、澤野家が江戸末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群である。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を行ってきた建物であり、重要な文化遺産として平成11年(1999)に袋井市指定文化財に指定された。 街道右手に寺沢家長屋門がある。
明治元年(1868)に建てられたと伝えられる東海道沿いには珍しい長屋門である。
寺沢家の隣に津島神社がある。
幕末の混乱期、東海道の松並木で津島牛頭天王社のお札が見つかり、村人がこのお札を津島神社(愛知県津島市)に納め、御祭神を迎えたのがこの社の始まりと云う。
現在の建物は、大正期に建てられたものである。

東海道道標 旧道口 木原一里塚跡 復元の木原一里塚
川井交差点手前に東海道道標 「川井」 が建っており、川井交差点の左角には初代歌川広重の 「狂歌入東海道」 と二代広重の 「諸国名所百景」 がある。 川井交差点で県道413号線に合流して進んで行くと、横断歩道橋の手前右手に旧道口があり、東海道道標 「木原松橋」 と初代歌川広重の蔦屋版東海道が建っている。 街道を進むと右手の民家前に木原の一里塚跡がある。
ここから60m先に復元された一里塚があるが、かつてはこの場所に一里塚があった。ここは江戸日本橋から数えて61里目の一里塚である。
木原一里塚跡から60m先に進むと左手に復元された一里塚がある。
ここには長椅子が置かれ休憩することが出来、一里塚の解説碑も建っている。

許禰(こね)神社
木原一里塚跡の直ぐ先に許禰神社がある。
許禰神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、文武天皇大宝2年(702)紀伊國熊野権現を勧請して社を建て、慶長7年(1602)徳川家康により旧社領70石を再興し、慶長10年(1605)社殿を造営した。
境内には、徳川家康腰掛石、八幡宮、須賀神社、厳島神社などの境内社がある。今回はここまでとし袋井駅から帰ることになった。

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