蘭文と日本語訳文が刻まれている

霜岑院殿前刑部泰雄大居士と刻まれている

地蔵菩薩など

阿弥陀如来坐像

掛川城主松平伊賀守忠晴の嫡子刑部少輔忠俊の墓

記念碑

解説碑

蒲鉾型のゲイスベルト・ヘンミィの墓

玉垣に囲われたゲイスベルト・ヘンミィの墓

天然寺本堂

本堂に掛かる天然寺の扁額

六地蔵尊

 鎖国が行われた江戸時代、長崎の出島はオランダ、中国との貿易のための窓口であった。出島のオランダ商館では、寛永10年(1633)より毎年一回、寛政2年(1790)からは4年に一回、江戸城で将軍に拝謁して献上品を贈り貿易通商の御礼言上をした。ゲイスベルト・ヘンミィもこのような使節団の一員である。
 ヘンミィの一行70余人は、寛政10年(1798)の初めに長崎を出発し、4月に11代将軍家斉に謁見した。そして、5月に江戸を発って長崎に帰る途中、6月5日掛川連雀の本陣林喜多左衛門方に投宿。この地でかねてからの病気が悪化し、6月8日に死亡、天然寺に葬られた。享年51歳。
 この墓は、蒲鉾型の石碑を伏せた型で、表面にオランダ語でその由来が書かれている。すでに表面が風化して、判読できなくなっている。墓誌は記念碑に移刻されており、訳文も添えられている。