昔、ここに一本の大きな松がありました。
江戸時代、大井川には橋が架けられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは、宿屋に足止めされました。
ここには次のような物語があります。安芸国(広島県)の娘深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。
その後、国元に帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。しかし、その人こそ駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎を尋ね、諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。
この声の主こそ、探し求める阿曽次郎でしたが、彼は主命をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は眼が見えなかったため名乗り合えずに別れてしまいます。
あとで阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。
その時、はじめて目に映ったのが大きな一本の松でした。
この物語を伝えるのにふさわしい大木(目通り1m56㎝・高さ20m)でしたが、惜しくも昭和10年代に枯れてしまい、これを憐れみ惜しんだ地元の人々によって、このお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。
書かれている題辞は 「風松久髷舜歌曲枯髄猶留女魂」 で、島田市名誉市民の清水真一氏によるものです。
この意味は、「松風が朝顔の弾く三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」 と解釈されます。
この物語 「朝顔日記」 は、江戸後期(1811)に作られたものですが、浄瑠璃として上演されて大評判となりました。
爪音は 松に聞けとや 春の風
厳谷小波句碑
朝顔の松の由来
田中波月句碑
かつて、ここにあった松の大木で作った木碑であり、「松風が朝顔のひく三味線の音に似ている、松は枯れてしまったが、ごぜの魂はいまだにその胡髄に宿っている」 との意である。
川除地蔵尊
朝顔目明観世音菩薩
朝顔の松
地元の人々が建立した御堂
観音堂・地蔵堂
御堂に掛かる 「あさがほ堂」 の扁額
朝顔の松碑
稗しごくと こぼれ太陽の ふところに
御堂の中の木碑