久延寺は、真言宗の寺院で山号佐夜中山。本尊は、聖観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである。」 という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。
 慶長5年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。
 右の絵は、天明6年(1788)に尾張藩士高力種信が東海道の風物を描いたものの一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を知ることができる。
(掛川市教育委員会)

馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟

月小夜姫之墓(左)・三位良政卿之墓(右)

宝篋印塔

芭蕉句碑

山内一豊建立の茶亭跡

徳川家康御手植えの五葉松

小夜の中山夜泣き石
 その昔、月小夜姫と三位良政卿との間に生まれた小石という身重の女が、菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいるところへ、轟業右衛門という男が通りかかり介抱していたが、小石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。

 その時、小石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里人はその石を 「夜泣き石」 と呼んで恐れた。
 生まれた子は、近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となった。

 そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八は母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたという。
 その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号を刻んでいったという。

久延寺境内説明

三界萬霊塔の地蔵尊

夜泣き石

地蔵堂 (地蔵尊が2基安置されている)

鐘楼

佐夜中山久延寺の寺標の掛かる山門

本堂内陣前の子育観世音菩薩像

久延寺本堂

 その昔、中山峠に頭は鳥・体は蛇という世にも恐ろしい怪鳥(蛇身鳥)が現れ、里の人や旅人を襲っていたため、都より帝の命令で三位良政卿が退治にやってきた。
 苦闘の末見事に怪鳥を退治した良政は、意気揚々と引き上げようとした時に月小夜姫に出会い、やがて二人の間に小石姫が生まれた。

手水舎

聖徳太子堂