脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡説明
脇本陣とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが宿泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣が重複したときなど、格式の低い者が格式の高い者に本陣を譲り、脇本陣に移りました。
元禄~正徳(1688-1715)ころの屋並図によると、本陣は柏屋・佐塚屋の2軒で、山田屋が脇本陣となっています。
寛政3年(1791)の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失してしまいました。それから10年後の享和2年(1802)の記録では、幕府からの拝借金で、玄関・門構えなどは仮説ながら3つの本陣が復興しています。しかし、「脇本陣なし」
となっています。
天保14年~安永6年(1843-1859)の 「東海道宿村大概帳」 には3本陣とは別に脇本陣が建坪105坪、玄関付(門構えなし)と記録されています。
これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めました。金原三郎右衛門は、享保19年(1738)金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(1818-1830)から明治3年(1870)の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました。
(島田市教育委員会)