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中山道   (近江八幡~守山)


平成27年11月3日(火) ☁/☀  近江八幡~守山  15.6㎞
前日(11/2)は雨のため街道歩きを一時中断して、彦根城・安土城跡・近江八幡の町並みを巡ったので、今日は一昨日の続きとなる六枚橋交差点まで出て、白鳥川・日野川・野洲川を渡って守山宿までの行程である。

近江八幡駅前 ぶーめらん通り 朝鮮人街道 旧伴家住宅
街道歩きの前に昨日歩いた近江八幡の町並みを見ていくこととする。
東海道本線近江八幡駅北口には 「近江商人発祥の地・水郷と古き商家のたたずまい」 と刻まれた案内版が建っている。
駅前を北に進むと最初の交差点(近江八幡駅前)の右角に 「ぶーめらん通り」 の道標が建っている。
通称駅前大通りというが、カーブしていることから 「ぶーめらん通り」 という愛称がついてる。
ぶーめらん通りを30分程歩き小幡交差点を右折すると右手に朝鮮人街道の道標が建っている。江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書を持って来日する 「朝鮮通信使」 は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われている。ソウルから江戸までの約2000㎞の行程の中で、近江八幡を含む彦根から野洲までの一部地域で 「朝鮮人街道」 と呼ばれている。 朝鮮人街道道標の隣に旧伴家住宅がある。伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を扇屋といい、旧伴家住宅は7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として文政10年(1827)より天保11年(1840)の10数年をかけて建築したものである。現在は平成16年より近江八幡市立資料館として一部公開している。

新町通り 八幡掘 日牟禮八幡宮 八幡山
旧伴家住宅の先の十字路左角に京街道と刻まれた道標があり、ここから北に延びる新町通りに旧近江商人の本宅であった家々が建ち並んでいる。 新町通りを北に進むと地蔵菩薩半跏像の安置された地蔵堂があり、その先に八幡掘がある。八幡掘は城を防御するために存在するが、豊臣秀次はこの八幡掘を運河として利用することを考え、琵琶湖を往来する荷船を全て八幡の町へ寄港させた。
八幡掘は時代劇のロケ地としても頻繁に使用されている。
八幡掘りに架かる明治橋を渡って行くと右手に日牟禮八幡宮がある。誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする旧八幡町の総社である。平安時代の創建といわれ、京都府八幡市の石清水八幡宮の神霊を勧請したものであり、楼門をくぐると拝殿・本殿があり、毎年3月に左義長祭という祭礼が行われている。 日牟禮八幡宮の先に八幡山ロープウェーがあり、八幡山(271.9m)山頂には、八幡城本丸跡の寺院である瑞龍寺がある。瑞龍寺は、安土・桃山時代に豊臣秀次の母であり秀吉の姉である瑞龍院日秀尼公が、秀吉に自害させられた秀次の菩提のために京都の村雲に創建し、俗に、村雲御所と呼ばれ、その後、昭和36年(1961)に現在地に移された。

千僧供橋 南無妙法蓮華経題目碑 真光寺 円願寺
近江八幡駅前から30分程歩いて一昨日の続きの六枚橋交差点に出て国道8号線を進み、白鳥川に架かる千僧供橋を渡って、本日の街道歩きのスタートである。 千僧供橋の渡り詰め左に南無妙法蓮華経題目碑があり、左側面に 「具足山妙感寺従是八町」、右側面に 「日像菩薩開祖之霊地」 と刻まれて道標を兼ねている。この題目碑の左の土手道には 「高野世継観音道」 と刻まれた道標が建っている。世継観音は永源寺の御本尊である。永源寺は臨済宗永源寺派の本山で康安元年(1361)近江の領主・佐々木氏頼が寂室元光禅師を迎えて開山した。 題目碑の先右手の最初の路地を入って行くと浄土宗の寂照山真光寺がある。馬淵氏が菩提寺として創建したと言われており、一時無住の寺となったが、元禄9年(1696)安土の浄厳院の僧厳誉がこの寺に隠居してからは、代々相続されて現代に至っている。 真光寺を出て次の路地を右に入ると真宗大谷派の天龍山円願寺がある。天平13年(741)行基の開祖と伝わり、ご本尊は阿弥陀如来である。境内には蓮如上人像がある。

八幡社 馬淵旧道口 地蔵堂 鍵取神社
円願寺を出ると国道8号線の信号交差点角に八幡社鳥居がある。神社の創立については不詳であるが、社伝によれば白河天皇の時代に源義家が奥州軍征の途中、この地に霊験を受けたことにより、応神天皇の霊を勧請して武運の長久を祈願し八幡社を造営したという。本殿は元亀2年(1571)織田信長の兵火に焼失したが、文禄5年(1596)に至り、大岡作左衛門尉長広によって再建され、国指定重要文化財となっている。 八幡社の先に斜め右に入る馬淵旧道口がある。
旧道口の右手には大きな忠魂碑が建っている。
旧道に入って直ぐ左手に地蔵堂があり、数基の地蔵尊碑が安置されている。その先、街道を横切る小川の脇にも地蔵堂があり1基の地蔵尊碑が安置されている。 街道の左右に田畑広がるところで、右手に八幡山が遠くに見え、左手に鍵取神社の林が見える。鍵取神社は天延元年(973)の創祀と伝えられ、古くは若宮八幡宮と称した。小さな神社であるが、拝殿・神門・社殿を有し、御祭神は大国主命・譽田別命・天神である。

宝養寺 春日神社 横関川の渡し場跡 横関橋
街道に戻って先に進むと、左手に日野川の土手が近づいたところに浄土宗の福照山宝養寺がある。文永5年(1268)の草創で、天文元年(1532)に再建されている。境内には地蔵堂があり、折しも境内においでになった住職が地蔵堂を開いて下さった。 宝養寺の先のY字路を右に進むと春日神社の鳥居があり、その先200m先に田畑に囲まれた林の中に春日神社がある。御祭神は與居登魂尊で境内社に若宮神社があり、社伝によると白鳳3年(663)の勧請で天慶3年(940)田原藤太社参して一社を建立したと伝わっている。 春日神社から戻ってY字路を左に進んで土手道を進むと横関川の渡し場跡があり、常夜燈と説明板が建っている。文化3年(1806)幕府が作成した 「中山道分間延絵図」 には 「平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トシテ往来ヲ通ス」 と注記されていることから平常旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟と舟の間に板を渡して作った舟橋を渡っていた。 渡し場跡から迂回路の土手道を進んで、日野川に架かる国道8号線の横関橋を渡り、渡り詰め右手の土手沿いの道を進んで、その先で渡し場跡の延長線上あたる旧道に復帰する。

若宮神社 浄泉寺 光圓寺 街道脇の塀
旧道を進んで行くと右手に若宮神社ある。創祀年代は不詳であるが、寛文12年(1672)8月神祗管領長上侍従卜部兼連朝臣より正一位若宮大明神として崇拝され、明治9年(1876)村社となり若宮神社と改称した。御祭神は大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)で応神天皇の子である仁徳天皇であり、境内社に八坂神社がある。 若宮神社の向かいに浄土宗の石流山浄泉寺がある。寺伝によると往時は天台宗で箱石山雲冠寺下の寺院だったが、雲冠寺回禄後、清誉巌西のとき、今の地に移築されたという。明暦元(1655)年浄土宗に改宗された。 浄泉寺の先左手に真宗佛光寺派の関川山光圓寺がある。創建年代は不詳であるが、社寺堂宇明細帳によると万延2年(1861)に再建されたという。境内には沢山の石仏が安置され、一段高い所の御堂には小社が安置されている。 光圓寺を過ぎると左右に赤と黒の趣ある塀が建っている。

道標 長者の石臼 旧道口 旅籠京屋跡
街道が国道8号線に合流する西横関交差点左角に道標が建っている。道標には 「是よりいせみち みなくち道」 と刻まれている。  国道8号線を進むと滋賀運送竜王本店の向かいの畑の中に石碑が2基建っており、その奥に半分土に埋まった石臼がある。畑に石碑が見えたので農作業中の女性に声を掛けて聞いてみると、この地は元庄屋の家があったところで土手沿いに石臼が埋めらており、傍らに地蔵尊が2基あり、その近くを掘ると更に下から小さな地蔵尊が出て来たもので、大切にお祀りしているという。 長者の石臼の先にある善光寺橋で善光寺川を渡り、その先の日本ペイントビルの脇を左に進んで行くのが旧道である。 旧道を進むと旧鏡村の集落に入る。ここ鏡は東山道の宿駅として指名されていたが、江戸時代に中山道となってからは、宿駅から外されてしまい守山宿と武佐宿の間の宿となった。集落に入って直ぐ右手に旅籠京屋跡があり、ついで旅籠富田屋跡がある。

石仏・道祖神 愛宕山常夜燈 真照寺 大願寺
街道を進んで行くと右手の鏡東草の根ハウスの一角に石仏・道祖神などの石造物が安置された場所がある。 国道8号線に合流する手前右手に愛宕山常夜燈と愛宕大神がある。国道8号線に合流ると右手に旅籠吉田屋跡・左手に旅籠吉野屋跡がある。 旅籠吉田屋跡の先右手に天台真盛宗の月鏡山真照寺がある。真照寺の案内文に 「社伝をみると鏡王は鏡神社の神官で、その娘、鏡王女や額田王は、神官家で育てられました。万葉の有名な歌人・額田王は、この地の出身といえます。父の鏡王は、後の壬申の乱で戦死し、この真照寺に葬られています。」 とある。 次いで街道左手に真宗仏光寺派の鏡向山大願寺がある。明治時代、学校制度ができ明治8年(1875)11月22日大願寺徳化学校が開かれ、鏡村、横関村の子供が教育を受けられるようになった。その後、明治11年(1878)鏡神社の東隣に専用校舎を新築し移転した。大願寺は徳化学校跡であり、国道8号線を挟んだ向かいの民家角には愛宕大神がある。

源義経宿泊の館跡 本陣跡 石仏 鏡神社
愛宕大神から一軒先に明治時代の鏡郵便取扱所跡があり、その一軒先に源義経宿泊の館跡がある。承安4年(1174)3月3日に京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、牛若丸一行は当時の宿駅長(うまやのおさ)であった澤弥伝(さわやでん」の 「白木屋」 の旅籠に泊まった。義経元服の際使用した盥(たらい)は代々秘蔵していたが、現在鏡神社宮司林氏が保管している。 次いで右手に江戸時代の本陣跡がある。元祖を林惣右衛門則之と称し新羅三郎義光の後裔であり、特に紀州侯の定宿で皇女和宮も休憩している。明治時代には駐在所が置かれ、一軒先には旅籠加賀屋跡がある。 加賀屋跡の直ぐ先の民家の前に石仏が祀られている。 街道右手の段上に鏡神社がある。南北朝時代の建築で 「日本書紀」 にも記されている朝鮮半島の新羅から陶製技術を伝えた天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社である。承安4年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は京都鞍馬山から奥州への旅路、この地白木屋に泊まり境内宮山の石清水を盥に汲み自ら烏帽子をつけ元服した。鏡神社へ参拝した16歳の若者は 「吾こそは源九郎義経なり」 と名乗りを挙げ源氏の再興と武運長久を祈願したという。

御幸山 義経元服の池 旧道口 愛宕大神
鏡神社境内の奥から裏山に登る道があり、登って行くと頂上に御幸山碑・御野立所碑・御陵遥拝所碑が建っている。大正天皇が大正6年(1917)11月14日に陸軍大演習をこの宮山より統監されたため、当時の知事池松時和が記念して御幸山と命名した。 街道に戻ると鏡神社の先で右カーブとなり、右手竹林の下に義経元服の池がある。遮那王(牛若丸)が京の鞍馬山より、金売吉次の手引きで奥州平泉へ向かう途中、鏡宿(白木屋)に泊まった際、前髪を落として元服したと伝えられる池である。傍らには源九郎判官義経公元服の池碑が建っている。 義経元服の池の先で国道8号線から左に入る旧道口がある。旧道口には道祖神と思われる石仏が3基祀られており、その先左手に明治天皇聖蹟碑が建っている。 集落を進んで行くと左手に愛宕大神がある。ここは中山道の面影を残した通りである。古代に造られた日本の幹線道路・東山道には篠原に駅家(うまや)が置かれ、15頭の馬が配備され、篠原駅として宿場と共に栄えていた。東山道の位置は、この付近では中山道と同じ位置で鏡へと通じていたと考えれている。鎌倉時代頃より篠原宿は衰え宿場は鏡の方へ移って行った。

地蔵堂 平家終焉の地 蛙不鳴池 東池
集落が途切れた辺りの左手に地蔵堂があり、2体の地蔵尊が安置されている。 先に進むとKANSAITRADING(関西貿易)の手前に平家終焉の地・平宗盛胴塚の看板があり、左に入って行くと林の中に平宗盛・清宗親子の胴塚がある。壇の浦の合戦で平家一門が滅ぼされ、一門の大将・平宗盛と息子清宗が鎌倉から京都へ送り返される途中、近江篠原で斬殺された。義経のせめてもの配慮で親子の胴は一つの穴に埋めれ塚が建てられた。 平家終焉の地から西に見える池は蛙不鳴池と言い、元暦2年(1185)源義経が平家の総大将平宗盛・その子清宗を処刑した時その首を洗った 「首洗い池」 と続きで、以後、蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながって、ほぼ円形をしていた。 国道8号線に合流して進んで行くと光善寺川橋の先で下り坂となり、左手に蓮が繁茂した東池がある。
池の奥に浄勝寺の屋根が見えている。

浄勝寺 道標 念仏寺 地蔵堂
東池を過ぎると左手に浄土宗の東方山浄勝寺がある。近江天保一揆では大篠原村庄屋小沢甚7名で17ヶ村に回状が出され、ここ浄勝寺に野洲郡16ヶ村の庄屋が集まったという。境内には地蔵堂があり、2体の地蔵尊が祀られている。 浄勝寺前交差点から斜め右に旧道があり、街道町集会所を過ぎると塀の立派な旧家の前の路地角に道標が建っている。この道標は岩蔵寺への道標で 「是よりいわくらやくし道 是より七丁」 と刻まれている。 道標の先の十字路に大笹原神社社標があり、ここを左に進んで行くと右手に浄土宗の法徳山念仏寺がある。念仏寺は慶長2年(1597)の開創であり、山門前に六地蔵尊・地蔵堂がある。大笹原神社は、念仏寺から更に700m程南東に進み、光善寺川を渡ったところにある。 街道に戻って進むと国道8号線と合流する手前左手に地蔵堂があり、地蔵尊碑が安置されている。

西池 法善寺 正蓮寺 旧道
国道8号線に合流すると左手に長い土手があり、上ってみると大きな西池がある。この池は人工的な灌漑用水池で鎌倉時代に築造されたものであるという。 西池の先の小堤信号交差点手前の路地を左に入ると浄土宗の小堤山法善寺がある。境内には五輪塔群があり、鐘楼前には上人墓がある。 街道に戻ると左手に浄土真宗本願寺派の正蓮寺がある。
境内には五輪塔や石仏が安置されている。
正蓮寺の直ぐ先右手の有限会社高谷石材の所から右に入る旧道がある。

愛宕山常夜燈 家棟川 篠原神社 地蔵堂
旧道に入ると間もなく右手に愛宕大神と常夜燈が2基建っている。 愛宕山常夜燈の先の家棟川新橋で家棟川を渡って行く。家棟川は、かつて河床が周辺地盤より高い 「天井川」 であったため、幾度か堤防決壊による被害が発生していたことから、平成19年に平地河川化を完了させたという。 家棟川を渡った右手に篠原神社がある。社伝によると村上天皇の御代に平将門平定の軍功によって、藤原秀郷の二男・田原二郎千時が、栗田・野洲二郡の地を賜った際、祭神等不詳の小社の正殿、社殿等三宇を建立したのが始まりである。御祭神は宇賀御霊命で、境内には八幡神社・天神社がある。 篠原神社を出ると直ぐ右手の集落入口の民家前に小御堂がある。小御堂には1体の石仏が安置されており、旧道らしい家並みが続いている。

長屋門 西徳寺 三上神社 子安地蔵堂
街道を進むと信号交差点の手前右手に長屋門の旧家がある。 信号交差点を越えて二本目の路地を左に入ると浄土宗の長流山西徳寺がある。室町時代に兵火を受けて廃寺となるところであったが、貞玄によって再興された安土浄巌院の末寺である。本尊の阿弥陀如来坐像は平安時代の作で野洲町指定文化財である。境外仏堂として地蔵堂があるが、子安地蔵として知られている。 西徳寺の裏から国道8号線に出ると向かい側に三上神社がある。三上山山麓の御上神社の氏子で、同社を氏神と仰いで来たが、ある年に相論が起きて同社から離れ、その後篠原氏・中原氏等が奉祀していた篠原神社の氏子となったが、再び相論がおきて、天徳2年(958)辻町阿部氏の地に社殿を建立し現在に至っているという。御祭神は天御影命で、境内社に春日神社・篠原神社・野神社がある。 街道に戻ると右手に西徳寺境外仏堂の子安地蔵堂がある。往時この地方は比叡山三千坊に数えられた数多くの巨刹があり、その中に天台系嘉祥寺に安置され元亀の兵火を免れた地蔵菩薩半跏像があり、その地蔵菩薩がここに安置されている。秘仏のため堂内の厨子に納められているが、毎年1月・8月の縁日に開扉されている。

愛宕大神 桜生史跡公園 御堂 中之池地蔵尊
子安地蔵堂の斜向かいに愛宕大神がある。石碑の窪みに愛宕神社のお札が祀られている。 街道が東海道新幹線に接近する左手に桜生(さくらばさま)史跡公園がある。この公園には全長50mの前方後円墳である天王山古墳、直径28mの円墳である円山古墳、直径約30mの円墳である甲山古墳があり、いずれも近江を代表する後期古墳である。 街道を進んで中の池川を越えると逆Y字路の右手に御堂がある。御堂には天台宗修験者の像が祀られており、傍らに奉修両登山百度供養塔と奉修行大峰登山五十度供養塔が建っている。 御堂の先の県道155号線の交差点左角に地蔵堂覆屋があり、中の地蔵堂に3体の中之池地蔵尊が祀られている。

稲荷神社 小篠原村庄屋苗村邸跡 養専寺 暁酒造
県道155号線を越えて進むと左手に稲荷神社の鳥居があり、鳥居を潜って参道を進むと国道8号線を越えたところに社殿がある。神社縁起書によれば、天智天皇壬申の乱に野洲川原で戦死した人々の供養及び鎮護国家を祈願し、石域村主宿称が福林寺を建立、その守護神として天暦2年(948)に伏見稲荷大明神を勧請したという。御祭神は宇迦之御魂神ほか八柱の神で、境内には若宮神社・古宮神社・愛宕神社・薬弘稲荷社がある。 稲荷神社から街道に戻ると微妙にうねった街道の脇に地蔵尊が安置され、大きな旧家が建ち並ぶその先の小篠原公民館脇に小篠原村庄屋苗村宅跡がある。 小篠原公民館の一軒隣に浄土真宗本願寺派の霊松山養専寺がある。養泉寺は文明9年(1477)了念の開創で、境内には大きなイチョウが聳えている。 養専寺の先右手に茅葺屋根が目立つ暁酒造有限会社がある。暁酒造は慶長年間(1596-1615)の創業で、当初の酒銘は 「八千代」 だったが、昭和24年(1949)に自社の発展を願い、社名と酒銘を共に 「暁」 と改名したという。暁酒造の先には石垣土台の重厚な長屋門の家がある。

常夜燈モニュメント 朝鮮人街道分岐 背くらべ地蔵尊 行事神社
東海道新幹線高架を潜り、その先の県道150号線の信号交差点を渡って進んで行くと、野洲小学校前の五叉路に常夜燈モニュメントが建っている。傍らに 「中山道・外和木の標」 説明板が建っている。 野洲小学校を過ぎると右に入る朝鮮人街道がある。写真は振りかえって見たもので、右が中山道で左が朝鮮人街道である。朝鮮人街道は朝鮮通信使が通った道で、ここ野洲町小篠原から安土・八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmに限られて呼ばれている道である。 分岐の先の信号交差点左角に背くらべ地蔵尊がある。覆屋には大小二体の石仏があり、右の小さい方が背くらべ地蔵、左の大きい方が阿弥陀如来立像である。この二体は鎌倉時代のもので中山道を行き交う旅人を護ったといわれている。また、当時は乳児がよく死んだため子を持つ親達が、「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとは良く育つ」 と背くらべをさせるようになり、いつしか 「背くらべ地蔵」 と呼ばれるようになったという。 背くらべ地蔵尊の裏手に当たるところに行事神社がある。社伝によると、神亀元年(724)御上神社の神託を受けた三上宿禰海部廣国が勧請したのが最初であり、三上別宮とも称され中畑・行合二ヶ村の総鎮守と崇められた。鳥居を潜ると勧請釣りと呼ばれる注連縄が参道を横切っており、御祭神は金山毘古神で、境内社に八幡宮・春日神社がある。

祇王井川 唯心寺 蓮照寺 四ッ家八幡神社
祇王井川は、行事神社の参道に沿って流れている水路である。江辺庄に生まれた妓王と妓女の姉妹は、保元の乱で父を亡くし京都に出て白拍子になり、平清盛の寵愛を受けた。ある時、妓王が故郷の人々が干ばつで苦しんでいると訴えると、清盛は承安3年(1173)に野洲川のほとりから琵琶湖野田浦に至る3里の間に水路を造らせた。この恩恵を讃えて、この水路を 「祇王井川」 と名付けたという。 背くらべ地蔵尊前の信号交差点を渡って進むと左手に浄土宗の佛牙山唯心寺がある。延暦24年(805)伝教大師(最澄)によって開かれた天台宗の寺院であったが、後に浄土宗に改宗した。本堂は茅葺屋根になっている。 唯心寺の先で枡形になり、右手に浄土真宗本願寺派の清流山蓮照寺がある。寛永元年(1624)浄春の開祖で、境内には街道から移設した道標が3基保存されている。 蓮照寺の先左手に四ッ家八幡神社がある。神社の前には御堂があり標柱や扁額が無いので不詳であるが、中には厨子が置かれているので観音堂か地蔵堂であろう。この裏に永承5年(1050)勧請の四ッ家八幡神社があり、稲荷神社・春日神社の境内社があるが中に入ることが出来ない。

顕了寺 浄満寺 新川神社 宇野勝酒造
先に進むと左手に浄土真宗本願寺派の醴泉山顕了寺がある。永享9年(1437)の開創で境内には名石 「虎の石」 がある。虎の石は九山八海の岩がある小篠原木瓜山にあったといわれ、形が虎に似ていることから名付けられたと伝えられている。 街道右手の由貴産業の向かいの路地を左に入って行くと真宗大谷派の慈光山浄満寺がある。長禄8年(1464)称名念仏の創始者である僧教信による開基である。山門はお城に見られる高麗門である。 浄満寺の先のY字路左に新川神社の常夜燈が建っている。その先の左手に新川神社がある。創始年代は不詳であるが、御祭神は須佐之男命で、境内社は多賀神社・大神宮・若宮神社・日吉神社である。鳥居を潜ると参道を横切る注連縄に竹の輪が4つ下げられている。これは湖東地方に多く見られる 「勧請釣り」 と呼ばれるものである。 街道に戻って由貴産業の先を進むと左手に宇野勝酒造がある。街道に面した門扉は看板を兼ねており、清酒 「玉の春」・純米酒 「悠紀」 の醸造酒名が書かれている。

地蔵尊ほか 十輪院 野洲川橋 馬路石邊神社
宇野勝酒造の直ぐ先右手の塀の前に地蔵尊などの石造物が安置されている。 街道を進んで東海道本線の高架をくぐると正面に黄檗宗(おうばくしゅう)百足山十輪院の御堂が見える。十輪院は明暦3年(1657)徳允居士が開いたお堂で、本尊地蔵菩薩立像は新川神社と縁のある尊像と伝えられている。境内には芭蕉句碑があり、御堂の向かい側には沢山の地蔵尊が安置されている。 十輪院の先で野洲川に架かる野洲川橋を渡って行く。橋の左後方には、平将門を討った俵藤太(藤原秀郷)が、大ムカデを退治したという伝説が残る三上山が見える。三上山は標高432mながらその美しい姿から近江富士とも呼ばれる。野洲川は、昔河口に八つの洲があったことから八洲川と呼ばれ、これが転じて野洲川となった。往時、平時は仮橋、増水時は舟渡しであった。 野洲川を越えて間もなく野洲市から守山市に入ると、右手に馬路石邊(うまじいそべ)神社社標が建っている。社伝によると白鳳3年(675)創祀という古社であり、現在の祭神は素盞鳴尊と大己貴命であるが、古代の氏族・石邊公の祖神を祀っていたと云われ、馬路は 「駅(うまや)」 が置かれていたことに由来するという。参道を100mほど進むと右手に茅葺屋根の門があり、中央に拝殿、奥に本殿と続いている。

益須寺跡説明 高札場跡 慈眼寺寺標 吉身宿並み
吉身小学校南交差点の左角に益須寺(やすでら)跡説明板が建っている。説明板によると、日本書紀持統天皇8年の条に 「益須郡、都賀山の麓に醴泉が湧き、益須寺に病人が停泊して療養した」 という内容が記録されており、この益須寺は吉身地先に推定され、これまでに白鳳時代の瓦が多量に出土しているという。 吉身小学校交差点を渡った先に街道を横切って流れる伊勢戸川の辺りに吉身加宿(守山本宿の加宿)の高札場があった。高札場跡説明板は左手のY字路中央に建っている。ここを流れる伊勢戸川は野洲川の伏流と湧水の 「宮城川」 の支流として水量多く冷たく清らかで、旅人の飲料水や宿場の防火用水として使用されてきたと同時に 「ゲンジボタル」 の発生の川としても親しまれてきた。 伊勢戸川の直ぐ先左の路地角に慈眼寺寺標が建っている。路地を入って行くと正面に天台宗山門派比叡山正覚寺末寺の慈眼寺がある。ご本尊は十一面観世音菩薩立像(秘仏)であり、古来地元吉身や近在の人々から 「帆柱観音さん」 として親しまれ、広く信仰されてきた。 ここは古の東山道にあたり、鎌倉時代に大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、江戸時代に日本橋から数えて67番目の宿場に指定されたとき、吉身はその西の今宿と共に守山宿の加宿として宿場の役割を分担した。

明覚寺 守山宿 道標 宇野家
慈眼寺に次いで右手に真宗大谷派の稲岡山明覚寺がある。建徳3年(1372)道念による開基で、境内には四方に枝を伸ばした見事な松がある。 明覚寺の先の吉身西交差点を横断して流れる小川が守山と吉身の境になっており、交差点を渡った左角に守山宿標柱が建っている。 吉身西交差点を渡ると最初の左路地角に道標が建っている。道標には 「高野郷新善光寺道是ヨリ二十五丁 すぐいしべ道」 と刻まれており、新善光寺への道標である。新善光寺は平重盛の一族小松左衛門尉宗定が平家の菩提追善のため信濃の善光寺に参詣を行ったのを機に善光寺如来の分身を奉安し、健長5年(1254)如来堂を建立したのが始まりである。 道標の直ぐ先左手に元内閣総理大臣宇野宗佑氏が生まれ育った宇野家がある。宇野家は江戸時代 「年寄」 と言う役職を務め 「長左衛門」 と称し、宿場に馬や人足を提供する事を家業としていた。その後、荒物屋を営み 「荒物屋長左衛門」 と名乗ったことから屋号は 「荒長」 と称したという。現在は守山市が譲り受け、多目的スペース・展示室・レストラン咲蔵などの施設がある。

天満宮 薬師堂(源内塚) 大光寺 本陣跡推定地
宇野家の斜向かいに天満宮がある。鳥居前に守山宿の説明版があり、この辺りは道幅が最も広く、高所にあり、街道に沿った民家の敷地が一戸毎に段違いの 「稲妻型屋敷割り」 となっていたという。 天満宮の隣の路地を入って行くと左手奥に薬師堂が建っている。平治の乱に敗れた源頼朝が家来達とはぐれて守山宿に差しかかったところで、地侍の源内兵衛真弘に襲われたが、逆に頼朝が源内の首を刎ね、それを哀れんだ村人が亡骸を供養して塚を建てたという。ここには薬師如来など数体の石仏と並べて、源内を供養する石仏が安置されている。 天満宮の向かいの筋を入って行くと曹洞宗の仏日山大光寺がある。墓所には元内閣総理大臣宇野宗佑氏の墓があり、境内には地蔵堂・弁財天堂がある。 街道に戻ると左手筋の角に本陣跡推定地がある。この場所は小宮山九右衛門本陣があったと推定される場所で江戸時代には問屋・脇本陣・本陣などの役割を果たした。ここには昭和40年まで特定郵便局兼局長宅があったが、平成16年に取り壊された。本陣跡碑の隣には、天保4年(1833)の宿場絵図に描かれた井戸がある。

中山道街道文化交流館 道標 市神様 地蔵堂
次いで町屋を利用した中山道街道文化交流館があり、一階は喫茶でちょと休憩できるスペースがあり、二階は木曽海道六十九次などの展示ギャラリーとなっている。軒下には、広重の木曽海道六十九次之内守山・天満宮六歌仙絵などが掲げられている。 中山道街道文化交流館の先のY字路手前右手に延享元年(1744)の道標が建っている。道標には 「右中山道幷美濃路 左錦織寺四十五町こ乃者満ミち」 と刻まれている。 道標の向かいのY字路中央に市神様の小社がある。 Y字路を左に進むと左手駐車場脇に地蔵堂があり、一体の地蔵尊が安置されている。地蔵堂脇にも同じくらいの大きさの地蔵尊があるが、地蔵堂に一緒に安置できない理由があるのだろうか。

東門院 明治天皇聖蹟碑 かたたや 土橋
地蔵堂の先右手に東門院(正式名称 「比叡山東門院守山寺」) がある。東門院は、延暦年間(782-805)比叡三千坊といわれる比叡山の僧坊の一つとして最澄が開いた寺院で、桓武天皇から 「比叡山を守る東門」 として東門院の名を賜り、寺領5村350石を賜ったと伝えられている。境内には弘法堂・不動堂・鎌倉時代造立の五重塔などがある。 東門院の脇に明治天皇聖蹟碑が建っている。東門院は明治天皇ご巡幸の際の御小休所になっている。 東門院の隣に門前茶屋 「かたたや」 がある。江戸時代後期の天保年間(1830-43)の頃、東門院の門前に 「堅田屋」 という茶屋があった。堅田屋は一部旅籠の機能もあり、「京発ち守山泊り」 と言われた守山宿にあって多くの旅人が利用したという。その堅田屋と同じ場所、同じ建物で門前茶屋 「かたたや」 が営業をしている。 かたたやの先の守山銀座西交差点を越えると境川に架かる土橋がある。旧栗太郡と旧野洲郡の境界でもあり、川が木材運搬の運河だった江戸時代の古文書によると当時は長さ20間(36m)幅2間(3.6m)あり、公儀(幕府)の負担で維持されていたという。境川を超えると守山本宿から今宿加宿に入って行く。

樹下神社 本像寺 専徳寺 地蔵尊
今宿加宿に入って直ぐ右手に樹下(じゅげ)神社がある。祭神は八岐大蛇(やまたのおろち)の神話で有名な稲田姫命(いなだひめのみこと)を奉祀しており、境内社には天満宮・八幡宮・愛宕神社がある。境内には天保2年(1831)伊勢屋佐七が建立した太神宮金毘羅大権現の常夜燈・守山停車場線道道標・菅原道真縁故の安産石などがある。 樹下神社を過ぎると左手に日蓮宗の具足山本像寺がある。本像寺は木内石亭に縁があり、石亭の墓や 「奇石(珍しい鉱物や石など)」 がある。石亭は幼少期から奇石を収集・研究し続けて 「石の長者」 とも呼ばれた。境内には日蓮上人・日朗上人・日像上人を祀る開山堂、若珍大明神を祀る若珍堂がある。 今宿町交差点を越えると左手に真宗大谷派の湖東山専徳寺がある。専徳寺は、慶長3年(1598)了雅による開基である。 街道を進むと右手の小川の中に地蔵尊が安置されている。

今宿一里塚 西光寺 善福寺 西福寺
地蔵尊の先左手に今宿一里塚跡がある。この一里塚は滋賀県内で唯一現存する一里塚で、街道を挟んで両側にあったもののうち、南塚だけが残っている。ここは江戸日本橋から数えて128里目の一里塚跡である。 一里塚を過ぎて左手の小川沿いに進むと浄土宗の西光寺がある。小さな本堂の境内には、五輪塔や地蔵尊など石造物が安置されている。 西光寺の先の焔魔堂前交差点で本日の街道歩きを終えて守山駅へ向かうこととした。焔魔堂前交差点を左折すると左手に浄土宗の陽勝山善福寺がある。小さなお寺で道路に面して鐘楼が建ち、境内には地蔵尊が安置されている。 善福寺の斜向かいに真宗佛光寺派の鳥居山西福寺がある。推古天皇27年(618)に聖徳太子による開基であり、ご本尊は阿弥陀如来である。

西蓮寺 勝部神社 最明寺
更に西福寺の斜向かいに時宗の紫雲山速成就院西蓮寺がある。山門前には開山した遊行七代上人碑(時宗の7代上人・他阿託何)があり、境内には一遍上人像がある。 西蓮寺を出て勝部自治会館前を進むと突当りに勝部神社がある。勝部神社は、古くは物部氏と関連し、中世には南近江の守護大名佐々木高頼に厚い信仰を受けた神社である。例祭の松明行事は約800年の伝統を持ち、「勝部の火祭り」 と呼ばれ、滋賀県三大火祭りの一つに数えられている。 勝部神社から守山駅へ出る途中に時宗の鎌倉山最明寺がある。最明寺は、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼が入洛する途中、この地に立ち寄って開いたと伝えられる寺院で、寺号も時頼が出家・隠棲後 「最明寺殿」 と呼ばれていたことに由来するという。境内には時頼が寺院とともに寄進したとされる石造五重塔があり、別名 「時頼塔」と言われている。

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