中山道は別名 「木曽海(街)道」 とも呼ばれていた。その中山道六十九次の第67番目が武佐宿である。この絵は浮世絵師安藤広重が武佐の西にある日野川(横関川)の舟渡しの様子を描いたものである。
 文化3年(1806)幕府が作成した 「中山道分間延絵図」 には 「平常渡し場、小水之節ハ舟二艘ツナギ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス」 と注記されていることから、平常旅人はこの川を舟で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟と舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたことになる。
 そうして、広重は大助郷の東横関村をあえて武佐としたと考えられる。日野川のこの場所に、橋が架かったのは明治8年(1875)のことであり、明治19年(1886)には無賃通行となり、それから明治26年(1893)に新調されたが、道路は中山道から国道8号となり、その新道として昭和12年(1937)近代的な横関橋が、この上流に架橋され、旧い橋はその2年後に撤去された。
 現在も、ここから日野川をはさむ両側には、かつての中山道の道筋が旧道として残っている。また、河原に下りれば、かつての旧道の橋の名残も確認できるので、往古の情景を思い浮かべていただきたい。

説明板に描かれた横関川の渡し場

旧横関川 (日野川)

「中山道六十九次の内武佐」 説明

木曽海道六拾九次之内 武佐