信長記に安土において正月盛大に左義長を行い自ら異粧華美なる姿で踊り出たと書いています。信長亡び豊臣秀次八幡城を築き安土から八幡に移住した人々を中心に八幡関町(天正18年)以来氏神八幡宮の祭礼として奉仕するようになりました。
元来左義長は支那から伝わった爆竹・弄餅等色々と伝えますが、我国では仁明天皇承和元年(834)鎮護国家安泰の宮中行事が京都を中心としてとんど焼きとはやされた民間行事となりましたものを氏神様の祭として行う事になったのが八幡の左義長です。
左義長は十二段祝着と云って新藁で美しく一束ごとに揃え7~8尺(約2.5m)の三角錐の松明を胴体としその上に一丈余(約5m)の青竹の笹を取り赤紙を中心に吉書・扇等をつけ杉の葉で作った頭に竹につけた火打・巾着・薬玉等をつけ三つの耳に御幣を立て左義長の中心と云うべき
「だし」 を正面につけます。これが左義長の晴所で費用を惜しまず手間を凝らし毎年干支等に因んだ造物を町内自慢で作成します。胴体に4本の棒を通し神輿と同じ様に担ぎ廻るのです。これに参加する氏子の若衆は踊子と云って老若男女を問わず女装に近い変装をして手に拍子木・下駄ばきで
「チョウヤレ」 と元気な掛声で踊り担ぎ廻るのです。(以下略)
左義長祭の由来
神馬
八幡まつりの松明
こども左義長 (笹竹に赤紙短冊・三角松明))
常盤神社 ・ 天満宮 ・ 宮比神社
岩戸神社 (伊勢参拝できない時の代参社)
本殿内陣
紅菊
拝殿
阿形の狛犬
吽形の狛犬
白菊
日牟禮八幡宮本殿
手水舎