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中山道   (守山~石山)


平成27年11月4日(水) ☀  守山~石山  13.9㎞
今日は守山駅前から昨日の続きとなる焔魔堂前交叉点に出て出発である。草津宿に着くと天井川を越えたところで東海道と合流し、中山道としてはこの草津追分で終了するが、旅はここで終了とはならないので京都三条大橋を目指して歩き続けることとする。

JR守山駅 住蓮坊母公墓 徳栄寺 十王寺
午前6時30分の駅前は、いつもの事ながら出勤の人並みと反対方向に歩くことになる。 焔魔堂前交差点を渡って左一軒目の民家角に住蓮坊母公墓碑がある。鎌倉時代の建永2年(1207)に近江八幡の馬渕で処刑される住蓮房に一目会いたいと後を追った住蓮坊の母は、焔魔堂まで来たところで既に処刑された事を知り、悲嘆に暮れて尼ヶ池に身を投げて亡くなった。石碑奥の市村さん宅の庭に住蓮坊の母の墓がある。 直ぐ先左手に浄土真宗本願寺派の徳栄寺がある。徳栄寺は戦国時代の延徳2年(1490)に西誓が開いた寺院で、永正元年(1504)本願寺第9代実如上人から 「徳栄」 の寺号を授けられたという。 徳栄寺の先の十字路右手角に浄土宗鎮西派の五道山十王寺がある。十王寺は小野篁(たかむら)の開基と伝えられており、山門前に焔魔法王小野篁御作碑が建っている。

諏訪神社 古高俊太郎生誕地碑 市杵姫神社 教願寺
十王寺の向かいに諏訪神社があり、境内には稲荷社がある。 街道を横切る水路の右手に古高俊太郎先生誕生地碑が建っている。古高俊太郎は、「池田屋事件 (1864)」 にかかわったことで有名で古くからの地元の名士・古高一族の出身で、尊皇攘夷の理想を掲げていた。理想実現のために尽力したが、新撰組に捕らえられ、志半ばにして獄舎で処刑された。 街道右手の水路脇の道を進むと左手に市杵姫神社がある。市杵姫神社は大宝元年(1701)栗東市に鎮座する大宝神社の飛地境内社であり、承応3年(1645)大宝神社の境内社から分祀された。御祭神は市杵島姫命で、江戸時代の七福神信仰で弁財天とも呼ばれた。 市杵姫神社の隣に浄土真宗本願寺派の光耀山教願寺がある。教願寺は、永正14年(1517)了西による開基であり、境内には境界石 「従是北淀領」、親鸞聖人像・蓮如上人像がある。

大宝神社 西琳寺 佛眼寺地蔵堂 佛眼寺
教願寺から街道に戻って進み、左手にある浜中医院の先の十字路を越えると、守山市から栗東市へ入って行く。間もなく左手に大宝公園があり、公園の南側に大宝神社がある。社伝によれば大宝元年(701)に現在の栗東市小平井から現在の所へ移ったといわれ、御祭神は素盞鳴尊であり、境内には芭蕉句碑 「へそむらの 麦まだ青し 春の暮」 がある。 大宝神社の南鳥居を抜けると真宗大谷派の妙香山西琳寺がある。 街道に戻ると大宝神社の向かいに佛眼寺地蔵堂がある。地蔵堂の中央に地蔵尊と書かれた厨子があり、中に六体地蔵が安置されており、脇に木造の地蔵菩薩立像がある。木造の地蔵菩薩立像は川が氾濫した時に流れてきた地蔵尊とのことである。 地蔵堂の左わきを進んで行くと時宗の大宝山佛眼寺がある。佛眼寺は、かつて大宝神社内にあって、大宝山神應院神宮寺と称して天台宗に属していた。応永19年(1412)神運再建本尊は阿弥陀如来として佛眼寺と改称し、応永27年(1420)時宗四條派本山金連寺7代浄阿上人の代に末寺に定められた。

百々川橋 龕薦堂 八幡宮 稲荷神社
栗東駅西口交差点を過ぎると中の井川に架かる百々川橋がある。中の井川は、野洲川から取水し、流末は葉山川に合流している。 街道を進んで花園交差点を越えた先の十字路右手角に花園墓地があり、入口に葬祭場の龕薦堂(がんせんどう)があり、地蔵尊・六地蔵尊が祀られている。 花園墓地の先左手に八幡宮がある。社標と鳥居は新しくて大きいが、社殿はかなり小振りである。 続いて街道右手奥に稲荷神社がある。この稲荷神社は拝殿があり、奥に覆屋に納まった社が二つある。

正林寺 草津線高架 伊砂砂神社 伊佐佐川
稲荷神社の先の笠川交差点を左に入ると浄土真宗大谷派の龍頂山正林寺がある。山門前には顔を白く塗って目を入れた地蔵尊や五輪塔などがある。 葉山川を越えると、街道は草津線等で分断されており、草津線高架下を通り、次いで東海道本線の隧道を抜け、右手線路脇の小路を通って進んで行く。 東海道本線の反対側に出て進むと、県道2号線の高架下を潜った先左手に伊砂砂神社(いささじんじゃ)がある。伊砂砂神社の草創は不詳であるが、名称は明治2年(1869)からのもので、古くは天大将軍社と称した。平安の昔この里に疫病が流行した際、村人がその鎮静を願って大将軍を祀ったのが始まりと云う。 伊砂砂神社の前を流れる伊佐佐川は、神社に参拝するために手を洗って身を清めるための御手洗川(みたらしがわ)であった。伊砂砂川神社の社名は、本殿の御祭神五柱のかな書き神名にある 「い・さ」 と、伊佐佐川に因んで伊砂砂神社とされた。

行圓寺 光明寺 地蔵堂 ブロンズ像
伊佐佐川の先を進むと街道右手に真宗大谷派の行圓寺がある。行圓寺は明応2年(1493)営順による開基である。門扉は閉じられているが、脇の小扉から中を拝観できる。 行圓寺の隣に真宗興正派の大放山光明寺がある。光明寺は、鎌倉時代前期の貞永元年(1232)に天台宗比叡山延暦寺の一道場として僧智観により創建され號稱寺と称したが、時代を経て浄土真宗の開祖親鸞聖人がしばしば逗留されたことをきっかけにして、浄土真宗に改宗した。 光明寺の先左手の民家脇の覆屋に地蔵堂があり、茶碗八延命地蔵大菩薩が安置されている。 街道を進むと左手の路地角にブロンズ像{やすらぎ)があり、手前に伊佐佐神社の祭りを描いた子供たちの絵が石板に貼られている。

稲荷宮 草津トンネル 地蔵堂 草津川
ブロンズ像の路地を左に入って行くと突当りに伊佐佐神社の御旅所の稲荷宮がある。 草津駅前通りを渡って 「きたなか アーケード」の中を通って行くと、草津トンネルの手前左手に草津宿本陣標識があるが、街道はトンネルを潜らず右手の道を進んで行く。 草津トンネル手前を右に曲がると直ぐ右手に地蔵堂があり、その先Y字路右手にも地蔵堂があり、脇に草津宿本陣道標が建っている。 Y字路を左に進んで草津川土手に出ると左側に川底に入る道があるが、生憎現在は工事中で川に架かる橋を渡って迂回することとなった。

草津追分 堯孝法師歌碑 本陣跡 脇本陣跡
土手道から草津トンネル脇に降りると左角に高札場跡があり、隣に地蔵堂がある。この向かいの段上には文化13年(1816)の道標を兼ねた常夜燈が建っており、「左中仙道美のぢ 右東海道いせみち」 と刻まれている。ここが草津追分であり、中山道はここで東海道に吸収される。この先は東海道であるが京三条大橋を目指して歩き続けることとする。 草津市民センターの前に堯孝法師歌碑があり、「近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき」 と刻まれている。歌の意味は 「将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。」 という。脇にはランナーの像が建っている。
春草津市民センターの斜向かいに田中七左衛門本陣跡がある。寛永12年(1635)に本陣職を拝命し、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めたという。現在、草津本陣楽座館として街道の様々な資料を展示してる。。 本陣の斜向かいに藤屋与左衛門脇本陣跡がある。明治時代に御茶屋となったこの建物(吉川芳樹園店舗兼主屋)は、平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰で塗り込められ、出桁などが町屋らしい雰囲気を醸し出しており、国の登録有形文化財に指定されている。

円融寺 脇本陣跡 街道交流館 常善寺
吉川芳樹園脇を左に入ると日蓮宗の法性山円融寺がある。円融寺は永禄2年(1559)日元による開基であり、明治時代には境内で相撲興行が行われていたという。境内には七面大明神・出世稲荷大明神が祀られている。 街道に戻ると吉川芳樹園の隣に脇本陣跡に建つベーカリー&カフェ脇本陣がある。お店の右脇には草津宿脇本陣跡碑が建っている。 続いて左手に草津宿街道交流館があり、街道マップや幕末の草津宿の模型や旅の道具、道中記類などの資料を展示している。 街道交流館の向かいに浄土宗の布薩山常善寺がある。常善寺は天平7年(735)良弁僧正の創建と伝えられる草津最古の名刹であり、 かつては堂塔伽藍も整っていたが、兵火や水害によって荒廃したものである。本尊の阿弥陀如来像と脇侍三尊が重要文化財に指定されている。参道途中には地蔵堂があり、幾つかの地蔵尊と祠の中に目鼻を色付けした地蔵尊が安置されている。

太田酒造道灌蔵 正定寺 八百久 養専寺
常善寺から街道に戻ると直ぐ左手に太田酒造道灌蔵がある。江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将の太田道灌を祖先に持つ太田家は、街道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていたことから、この太田家を中心とするこの付近は、草津の政所(まんどころ)と言われてきたという。太田家が酒造りを始めたのは、廃藩後のことで、大吟醸道灌・本醸造千代八千代などがある。 道灌の西隣に浄土宗の佛國山正定寺がある。正定寺は、寛永15年(1634)の開基で、境内の墓地には、草津本陣(木屋本陣田中家)及び田中久蔵本陣の墓所がある。境内には観音堂・子育地蔵尊・三重塔などがある 正定寺の一軒隣に八百久店舗兼主屋がある。八百久は寛保年間(1741-43)から日用品(鋤、鍬、天秤、火鉢など)を扱う商家だった。現在の建物は昭和3年(1928)に建てられたもので、厨子二階建で二階は格子戸と虫籠窓になっており、平成19年(2007)に国の登録有形文化財となっている。 続いて街道左手に真宗佛光派の鈴風山養専寺がある。境内には地蔵堂・旧梵鐘などがある

立木神社 宮町地蔵尊 矢倉橋 光伝寺
養専寺の先で県道141号線を渡ると右手角に立木神社がある。立木神社は、称徳天皇神護景雲元年(767)に御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ諸国を経てこの地に到着され、手に持たれた鞭をこの地に刺したところ枝葉が出たため、里人がこの木を崇めて社殿を建てたのが始まりと云う。境内には草津追分の文化13年(1816)の道標の前身の道標がある。 立木神社の先左手の吉沢煙草店の路地を入って行くと右手に宮町地蔵尊がある。御堂の中の地蔵尊はいずれも目鼻が色付けされたカラフルなものになっている。 草津宿の南口に天井川の草津川から川筋を代えて付け替えられた草津川に架かる矢倉橋がある。橋の手前左手に解説板があり、それによると矢倉橋の南詰あたりに黒門と呼ばれる宿の内と外を限る施設があったという。 矢倉橋を渡った直ぐ左手に浄土宗の法照山光伝寺がある。光伝寺は承平年間(931-38)の開基と伝わり、本堂は応仁の乱で焼失したが、明暦年間に再興されたという。ご本尊の木造阿弥陀如来坐像は国の重要文化財に指定されている。

武甕槌神社 家並み 古川酒造 養蓮寺
街道右手に武甕槌(たけみかづち)神社があり、隣に神武甕槌社の神輿蔵らしき建物が建っている。 街道には虫籠窓の付いた白壁の旧家が続いている。右手の矢倉集会所の前には地蔵堂があり、中に般若心経の書かれた布をまとった一体の地蔵尊が安置されている。 街道右手に明治以前から創業する古川酒造がある。酒銘 「天井川(てんじょうがわ)」 は、蔵近くを流れる 「草津川」 が川底が周辺の平地より高い天井川であることに由来している。 古川酒造の向かいに真宗大谷派の兵庫山養蓮寺がある。養蓮寺は天平2年(730)の開基であり、永正11年(1514)空西によって再興された。ご本尊の阿弥陀如来は聖徳太子による作と言われる。

願行寺 地蔵堂 道標 愛宕神社
養蓮寺の向かいに真宗大谷派の石佛山願行寺がある。願行寺は天平2年(730)の開基で当時の寺院の場所は石佛村であった。応永2年(1395)本願寺第5世綽如上人に帰依し、その後元禄の頃(1700)現在地に移った。境内には地蔵尊の安置された覆屋・十三重塔などがある。 街道に戻ると信号交差点を越えた先右手に地蔵堂がある。地蔵尊は色付けされ、前掛けに色を付けたと思われる子供の名前が書かれている。 街道右手の伝統工芸品の瓢泉堂の前に寛政10年(1798)の道標が建っている。道標には、「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれている。江戸時代より瓢箪は、酒や水を入れる容器として使われてきた。安藤広重の描いた 「東海道五十三次」 の草津宿は、この瓢泉堂の位置に当たる。 瓢泉堂の先の右手の筋を入ると左手に愛宕神社がある。社殿の脇には地蔵堂があり、2基の色付けされた地蔵尊が安置されている。

地蔵堂 稲荷神社 一里塚跡 教善寺
愛宕神社から街道に戻ると右手の民家の前に地蔵堂がある。地蔵堂には目鼻口をしっかり描いた地蔵尊が1基安置されている。 地蔵堂の先の信号交差点の手前左手に稲荷神社がある。たくさんの鳥居を潜って行くと一段高くなったところに覆屋があり、朝日大明神と伊吹大明神の社殿が二つ並んでいる。 稲荷神社を過ぎて矢倉南交差点で国道1号線東海道を渡った左斜めに入る筋を進んで行くと赤字で書かれた一里塚の看板がある上北池公園に突き当たる。公園内には野路一里塚碑が建っているが、一里塚はここより北西に約30mの所と道路を挟んだ北東約20mの所に2ヵ所にあった。ここは江戸日本橋から数えて119里目の一里塚跡である。 一里塚跡の前でかがやき通りを渡って旧道に入ると左手に浄土宗の本誓山教善寺がある。教善寺は承応2年(1653)隋誉による開基である。境内には聖観音像・十一面観音菩薩・子育地蔵尊などの石造物がある。

地蔵堂 遠藤権兵衛家 浄泉寺 新宮神社
教善寺の隣に地蔵堂があり、白く塗られた体に黒く塗られた目が際立った地蔵尊が安置されている。 地蔵堂の直ぐ先右手にブロック塀に囲まれた遠藤権兵衛家があり、塀の上に解説がある。源平の戦いで敗れた平家の総大将宗盛は野洲篠原で斬首され、長男の清宗はこの地に置いて掘弥太郎景光の一刀で斬首された。遠藤家の庭には、代々平清宗の胴塚として保存している供養塔がある。 街道が大きく右にカーブする手前左手に真宗大谷派の玉川山浄泉寺がある。浄泉寺は長禄4年(1460)円実による開基である。野路城主・黒川駿河守宗次は本願寺第八代法主・蓮如上人より御化導を受けて得度し、法号を円実と賜わっている。 浄泉寺の直ぐ先、左手筋に新宮の鳥居が建っており、鳥居を潜って100m程進むと左手に新宮神社がある。新宮神社の草創は天平2年(730)と伝わり、祭神は事解男命(ことさかおのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)で別名を野路神社とも言う。
境内には古宮神社・八幡神社・都久夫須麻神社・金毘羅神社・稲荷神社の境内社がある。

常徳寺 願林寺 野路萩の玉川 地蔵堂
新宮神社の向かいに曹洞宗の玉川山常徳寺がある。常徳寺は明和5年(1768)元雷による中興であり、境内には観音堂があり、その向かいにお絵描き状態の地蔵尊が安置されている。 街道に戻ると右手に寺標があり、参道を進むと長屋門の山門の真宗大谷派の白萩山願林寺がある。願林寺は永正9年(1512)祐正による開基であり、ご本尊は阿弥陀如来である。山門は旧膳所城の長屋門を移築したものであり、境内には立派な松が枝を伸ばしている。 街道を進んで県道43号線を越えると右手に野路萩の玉川がある。野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として栄えた所であり、この野路に玉のような綺麗な湧水が有ったことから 「玉川」 と呼ばれ、「日本六玉川」 の1つに数えられていた。ここには復元された湧水があり、往時の姿を偲ばせている。 野路萩の玉川の隣の民家前に地蔵堂があり、輪郭を縁取られた地蔵尊が安置されている。

弁財天 常夜燈 地蔵堂 家並み
街道を進むと弁天池に突き当たり、浮島に向かって細い橋が架かっている。この橋は弁財天参道橋であるが、危険防止のために橋の入口は鎖で塞がれている。 弁天池を過ぎて信号交差点を渡って進んで行くとマンションの前に木製の常夜燈があり、右に 「ここから大津」、左に 「ここから草津」 と書かれてる。 街道を進むと日本黒鉛工業瀬田工場を右に見ながら上り坂を進み、下りになった右手の筋の角に地蔵堂がある。地蔵堂には1基の地蔵尊が安置されている。 地蔵堂の先を進むと長屋門の家など趣ある家並みが続いている。

新福寺 道標 月輪自治会館 月輪寺
長屋門の家の先右手に浄土宗の寶國山新福寺がある。新福寺は延宝4年(1676)編誉によって中興され、ご本尊は阿弥陀如来である。境内には地蔵堂があり延命地蔵尊が安置されているが、ガラス戸が閉められており拝顔できなかった。 新福寺を過ぎると月輪自治会館の手前の左に入る筋の角に道標が建っている。道標には 「名勝 月輪大池 南約1粁」 と刻まれている。 道標の直ぐ先左手に月輪自治会館があり、入口前に月輪の解説碑が建っている。碑には、「月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれます。付近は荒野でしたが、江戸時代にはいって開墾がすすめられ、延宝4年(1676)大萱新田となり、明治7年(1874)月輪村と改称されました。」 とある。 月輪自治会館の直ぐ先左手に曹洞宗の普門山月輪寺がある。月輪寺は安永2年(1771)長野助右衛門が行者堂を建立したのが始まりで、文久3年(1863)徳川家茂が休息時に寺号月輪寺を下賜したという。参道口には、明治天皇御東遷御駐輩之所碑・新田開発発祥之地碑・地蔵堂・道標 「東海道 濱道」 がある。

東海道立場跡 一里山橋 一里塚跡 道標
月輪寺の先に信号交差点があり、交差点を渡った左手の月輪池の前に東海道立場跡碑が建っている。 一里山一丁目交差点を越えると長沢川に架かる一里山橋があり、更にその先で小川を越えると左手の民家の塀に地蔵尊が安置されている。 緩やかな坂道を上った先の信号交差点左角に一里塚跡碑が建っている。ここにあった一里塚は、大津と草津の間に位置し、大きな松が植えられていたが、明治末期に取り除かれてしまった。ここは江戸日本橋から数えて120里目の一里塚跡である。 一里塚碑の通りを挟んだ向かいの石垣の上に道標がある。道標は十字に刻まれ、上に 「三条大橋迄5里余り」、下に 「江戸日本橋迄120里余り」 と刻まれている。

地蔵堂 地蔵堂 浄光寺 地蔵堂
街道を進んで大江四丁目交差点を越えた左手に地蔵堂がある。更に瀬田小学校を越えた十字路手前にも地蔵度がある。 瀬田小学校の先の信号交差点を左折して進むと小川沿いに地蔵堂がある。 街道を進んで初田仏壇店のところでY字路となり、右に進むと浄土宗の帰法山浄光寺がある。浄光寺は寛文元年(1661)に中興された寺院で、木造阿弥陀如来立像は滋賀県の重要文化財となっている。境内には地蔵堂が二つあり、地蔵尊が半円形に向かい合って安置されている。 浄光寺を過ぎて道なりに進んで行くとT字路に突当り、左折した右手の㈱内田組の前に東海道の標識とタヌキの像の隣に地蔵堂がある。

和田一号橋 檜山神社 正法寺 道標
㈱内田組の前の信号交差点を横断して高橋川に架かる和田一号橋を渡って行く。高橋川の上流は瀬田ゴルフコースの敷地内にあり、下流で瀬田川に合流している。 和田一号橋を渡った左手の小山の上に建部大社の境外末社である檜山神社がある。参道途中には横尾山1号墳があるが、これは京滋バイパス建設に伴って移設されたものだという。 檜山神社の先を進むと右手に日蓮宗の八景山正法寺がある。正法寺は昭和8年(1933)信暢による開基であり、境内には日蓮上人像がある。 正法寺の先で東海道は斜め左に進んで県道16号線に合流する。この分岐に山村石材店があり、この石材店が造ったと思われる道標が建っており、「左東海道 右瀬田唐橋」 と刻まれている。

建部大社 安養寺 妙真寺 西光寺
県道16号線に出て東海道は右に進むが、ここを左に進むと建部大社がある建部大社は、景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀ったのが始まりと云われ、その後、天武天皇白鳳4年に近江国の中心であった瀬田の地へ遷祀されたという。本殿には日本武尊を祀り、境内には菊花石・菊紋壺・本殿を囲む左右に八つの摂社などがある。 建部大社の神門から参道を横って県道16号線に出ると正面に浄土宗の致臺山安養寺がある。安養寺は寛正5年(1464)円諦による開基であり、ご本尊は阿弥陀如来で境内には地蔵堂がある。 県道16号線を進んで唐橋東詰交差点を右に折れると日蓮宗の永光山妙真寺がある。妙真寺は建長5年(1253)日蓮による開基であり、境内には稲荷社などの境内社がある。 妙真寺の直ぐ近くに浄土真宗本願寺派の夕照山西光寺がある。西光寺は慶長7年(1602)了空による開基であり、山門脇には明治29年(1896)の記録的な大雨による浸水の記録を示す石柱が建っている。

地蔵堂・道標 橋守地蔵尊 雲住寺 瀬田橋龍宮
瀬田の唐橋の東詰には地蔵堂があり、中には黒色で縁取られた沢山の地蔵尊が安置されている。脇には道標があり 「跋難陀龍王宮是より 俵藤太秀郷社川そい半丁」 と刻まれ、その隣に雲住寺寺標があり、山崎茶酔の句碑がある。この向かいの交差点角にも寛政12年(1800)の道標があり 「田上太神山不動寺」 と刻まれている。 道標に従って川沿いを進むと地蔵堂があり、中に橋守地蔵尊が安置されている。この石仏は昭和51年の橋脚工事中に地下から出現したもので、予め唐橋下から何か出現すると予言していた霊能者によると薬師如来であるとのことで、滋賀県は唐橋の中央に向けて小社を建て、通称を橋守地蔵として祀ったという。この向かいには瀬田の唐橋碑が建っており、裏面に俵藤太百足退治伝承の地と刻まれている。 橋守地蔵尊の裏手に浄土宗の龍光山秀郷院雲住寺がある。雲住寺は応永15年(1408)の開基であり、境内には百足供養堂の六角堂があり、これが俵藤太が退治した百足の供養堂である。 雲住寺の隣に瀬田橋龍宮がある。簡素な神門をくぐると木柵の中に龍王宮と秀郷社の2つの社が建っている。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、室町時代の1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったとう。

瀬田の唐橋 大田瓦店 縁切地蔵大菩薩 JR石山駅
瀬田の唐橋は、近江八景 「瀬田の夕照」 (せたのせきしょう) で有名であり、別名 「瀬田橋」や 「長橋」 とも呼ばれ 「唐橋を制するものは天下を制する」 と言われ、古来より京都の喉元を握る交通・軍事の要衝として重視された。唐橋中之島には、西沢十七星碑・瀬田唐橋架換記録碑・瀬田の唐橋解説などがある。 唐橋西詰交差点を渡ると右手に大田瓦店があり、店頭に愛知県の福應寺本堂の鬼瓦などが並んでいる。 京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡ると左手に逆縁之縁切地蔵大菩薩碑がある。碑には蓮如上人御影休息所・地主之守大神・方位之守大神とも刻まれている。 街道を進んで松原町西交差点を左折するとJR石山駅である。
本日はここで終了し、JR東海道線で瀬田駅まで戻って駅前のホテルで宿泊する。

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