帆柱観音で名高い慈眼寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かつて徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。
 また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場までの街道は、本宿と同じように 「稲妻型道路」 となっていた。街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっている。宿場の治安維持を図るための工夫と考えられているが、全国的にもこのような道路が残るところは大変珍しい。現在は道路整備によって見にくくなっているが、一部は観察することができる。
 (守山市教育委員会)

 この辺り一帯を 「吉身」 という。古くは 「吉水郷」 と称し、ゆたかな森
林ときれいな 「水」 に恵まれた天下の景勝地であった。元暦元年(1184)9月に発表された 「近江国注進風土記」 には、当時の近江国景勝地80ヶ所の一つとしてこの地が紹介されている。南側は 「都賀山」 の森と醴泉(れいせん)(こさけのいずみ)が湧く数々の池があり、東に有名な 「益須寺(やすでら)」 があった。そしてこの街道は 「中山道」 である。古えの 「東山道」 にあたり、都から東国への幹線道として時代を映し出してきた。
 鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、江戸時代に江戸の日本橋から数えて67番目の宿場に指定されたとき、「吉身」 はその西の 「今宿」 とともに守山本宿の 「加宿」 として宿場の役割を分担した。ここは吉身加宿の 「高札」 が立っていた所である。本宿と加宿の境には川が流されてその標(しるし)とした。流れるこの川を 「伊勢戸川(伊勢殿川)」 という。野洲川の伏流と湧き水を戴く 「宮城川」 の支流として水量多く冷たく清らかで、川の水は旅人の飲料水としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。里中にしては珍しく流れが早く周囲の環境に恵まれて多種類の魚たちを育み、同時に 「ゲンジボタル」 の発生の川としても親しまれてきた。
 昭和30年代後半以降約40年の水質悪化の時代を経て、近年吉身の川が再び往時の清らかさを取り戻しはじめた。その証としてゲンジボタルがその華麗な姿を見せてきたことを啓示とし、地元自治会が 「川をいつもきれいに」 する動きを始めた。
 時あたかも守山市が市制30周年を迎え、その記念事業としてあらためて川の環境を整え、いつもきれいな水が流れる川を維持しつつ、「ホタルが住みよい吉身」 のまちづくりを目指している。

高札場跡説明

高札場跡

吉身(吉水郷)説明

清らかな流れの伊勢戸川

中山道を左から進んで来て振り返ったY字路中央に高札場跡説明が有る。.