拝殿

参道脇の地蔵尊

守山停車場線道道標

境内社の愛宕大神宮

 この道標は、明治45年(1912)に営業が開始されたJR守山駅と中山道を結ぶ守山で最初の道路「守山停車場線道路」の完成を祝って、江畑栄太郎氏が発起人となり、中山道から駅への入口(現今宿町交差点信号)の右側に建てられた。

 元々は神社北側の吉川の左岸にあって、川を利用した船便や土橋を渡り中山道を往来する旅人の安全を祈願して建立されたもの

天保2年(1831)の大神宮常夜燈

 菅原道真公大宰府に左遷され、その一族の全てが連座された延喜元年(902)の秋、中山道守山宿通称どばし河の叢の平石に伏して苦しむ一女あり。里人達これを懇ろに介抱する。病躯の女人曰く、私は先の右大臣道真の娘である。今度の連座に依って配流の地に赴く途中であるが、之の身俄に産気を催し歩行自由鵜ならず、とても身二つは覚末なしとて尋常ならざる様子。里人看護に一心なれど其の効なし。女人苦渋に耐えつつも宣う此の地との宿縁村人の親切に報いるすべがないのが悲しいと・・・せめてこの身に換えて之の地の女人のお産安からしめ賜へと、之の平石に祈祷されつつ入滅されたという。村人悲しみて丁寧に葬り盛土をなし、祠を建て女天神塚として公称し祭祀された。現今宿町一番地守山小学校運動場の一遇。
 爾後、平石がご神体となり産婦の信仰篤く、石に手を触れば難産なかりとの伝説が残っている。
 時世は流れいくつもの世が移り、当時の女天神塚の名残は皆無であるが、之の平石のみが樹下神社の一遇に安置され、菅公縁枯の安産石として護持されているものである。

安産石

安産石の由来

 当社の祭神は八岐大蛇の神話で有名な稲田姫命を奉祀する。昔は十禅師宮と称された(日吉七社の一社)当社にとって大宝神社は本社に当たり祭神素戔嗚尊は十禅師宮の背の君である。
 十禅師宮は疫病消除、往来安泰良縁招福の氏神として累世変遷にも里人との機縁絶えることなしとの伝承がある。
 明治初期法令に依って現在の樹下神社と公称される。

樹下神社由緒碑

地蔵尊

境内社の稲荷社

樹下神社本殿

境内社の天満宮

神門

手水舎

鳥居

拝殿内部