中山道守山宿は街道筋の距離が、文化14年(1817)の記録では1053間、うち民家のある町並みが569間という長い街村であった。宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。この高札場から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。
街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。段違いの長さは一定ではないが、およそ2~3尺で、間口の幅は規定されていないことがわかる。
この屋敷の並び方がいつ頃から行われたかを知る史料はないが、守山宿が守山市と関連して商業的機能と宿場を兼ねたことで、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。
(守山市教育委員会)
中山道守山宿説明
稲妻型屋敷割の道説明
神門
覆屋の中の本殿
本殿覆屋
境内社
拝殿内部
拝殿
手水石
吽形の狛犬
阿形の狛犬
手水舎
天満宮の扁額が掛かる鳥居
守山は古来、東山道の宿駅として栄えました。江戸時代に入り、東山道から中山道に改められた。寛永19年(1642)守山宿は、徳川幕府より、中山道の正式宿場としての制札が下され認可されました。
中山道は板橋(東京都)から守山までの67次で、守山は最終宿場でした。 江戸時代、旅人の一日の行程は、8里(約32㎞)から10里(約40㎞)でした。京都三条大橋から守山までが8里6町(約34.4㎞)で、この行程にあたる。
京都から中山道を通って江戸方面へ行く(東下り)人たちは守山で泊まりました。この事から 「京だち守山泊り」 と呼ばれ、守山は明治維新まで繁栄しました。
(守山市教育委員会ほか)
神牛
境内社の稲荷社