岡田逸治郎(字は久道、想外と号す)は、天保10年(1839)12月20日近江守山吉身村に生まれた。生来闊達剛毅の質で幼少より家業を手伝う傍ら学問と剣術で心身を鍛え、地域の諸事にも汗を流した。文久2年(1862)弱冠22歳で吉身村の組頭に就き、続いて吉身村大庄屋、中山道守山宿万石総代役、明治元年(1868)には守山宿伝馬所総元締役を兼任するよう時の宮津藩から仰せつかった。
 明治3年から同5年にかけて、逸治郎は中山道吉身地元の 「石田川」 を赤野井村まで開削して之を運河と為し、通船・高瀬舟で米荷や旅人を運び、浜大津に一大倉庫を建てて、赤野井・浜大津間は湖上を大型船で搬送、京・大阪への輸送(唐橋廻り)を軽減するという大事業を興した。赤野井村の豪商美濃部佐兵衛が之に協力した。運送の業は明治13年(1880)の頃まで継続された。
 明治13年4月、逸治郎は選ばれて滋賀県議会議員となり、明治26年(1893)秋までの13年を県政に捧げた。この間明治24年秋から26年秋まで、滋賀県議会の第8代議長を務めた。明治27年3月、第3回総選挙に立候補して衆議院議員に当選した逸治郎は、その持てる政治力を国会の場へと移した。
 政界引退後は、県立商業学校(現県立八幡商業高校)の校長を勤めるなど、子女の教育と地元の世事に力を尽くし、明治42年(1909)10月4日、71歳の生涯の幕を閉じた。 (以下略)

帆柱観音縁起

 このお寺は、天台宗山門派比叡山正覚寺末寺の無檀家寺です。古来地元吉身や近在の人々から 「帆柱観音さん」 と親しまれ、広く信仰されてきました。
 御本尊は十一面観世音菩薩立像(秘仏)です。縁起によれば、傳教大師最澄が桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰国途上、突然の海難に遭遇して危急の折り、海上に観世音菩薩が現れて風波が鎮まり無事に帰国された。帰国後大師は、海難で折れた船の帆柱で、十一面観世音菩薩と脇侍の持国天・多聞天像を彫り、弘仁元年(810)中山道に沿う吉身の地に水難をはじめ全ての交通安全の守り仏として安置されたのが起源とされています。
 元亀2年(1571)織田信長の兵火の際、村人たちが御本尊を地中に埋めてお守りし、その後現在の地にお堂を建てて、以来ずっと護持してきました。また境内薬師堂に安置されていた源信僧都作と伝える薬師如来坐像と脇侍の日光・月光両菩薩立像は本堂改築に伴って修復され、文禄3年(1594)の銘を残す鬼瓦とともに守山市の指定文化財」になっています。
 特に修復後新本堂に安置された薬師如来坐像は、昔この寺が馬路石邊神社の神宮寺で、海や水の守り神住吉神との関わりが深いとされる本地仏(神本来の姿で祀られた仏)の可能性の高い仏像として平成21年(2009)滋賀県の 「近江水の宝」 にも認定された傑作です。
 この度、江戸期以来風雨に晒され崩壊寸前であった本堂を、地元吉身の住民が中心になって浄財を募り、新しく再建して落慶を迎えました。

岡田逸治郎之碑説明

帆柱観世音 慈眼寺 (正面)

薬師如来(左)

ほはしらかんせおん(右)

岡田逸治郎之碑

宝篋印塔

安政5年(1858)の森先生墓碑

聖観世音菩薩立像

地蔵尊

鐘楼

慈眼寺本堂