中山道沿いの野洲川のほとりに、明暦3年(1657)徳允居士が開いたお堂。徳允は立入氏の先祖で、お堂は立入家が代々守り伝えてきた。元禄5年(1692)には看守覚厳がおり、黄檗宗直指庵の末寺であった。本尊地蔵菩薩立像は、新川神社と縁のある尊像と伝え、鎌倉時代に遡ると考えられる。鎌倉時代の聖観音立像(野洲市指定文化財)も祀られ、湖東三十三所の第五番札所で、「ひとすじに
みなを唱えば誰もみな 渡る瀬やすき やすの川波」 の御詠歌が知られる。
かつて、夜に川を渡る旅人が迷わぬように毎晩灯篭に灯をともしていたといい、八石八斗が除地となっていた。現在、お堂の横にある天明5年(1785)の灯篭は、以前は野洲川の畔にあり、対岸にあった燈籠は新川神社鳥居横に移されている。また、旅人のための茶所(接待所)があった。しかし、大正14年(1925)、道路移設に伴い境内の真ん中を道路が通るようになったことが、残念に思われる。
境内には野洲晒を詠んだ芭蕉句碑 「野洲川や 身は安からぬ さらしうす」 があり、毎年8月24日の地蔵盆には多くの人々にお詣りいただいている。
百足山十輪院由緒
野洲川や 身は安からぬ さらしうす
芭蕉句碑
天明5年(1785)の常夜燈
ご本尊の地蔵菩薩立像は厨子に納められている
野洲晒(さらし)は麻布を白くさらす 「布晒」 を専門に行っていた。その工程の中に、川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬に冷たい川に入って布をつくのは重労働であった。
御堂内陣
御堂向かいに安置された沢山の地蔵尊
十輪院御堂