元服之池碑

義経元服池説明プレート

 父は尾張の露と消え 母は平家に捕らえられ
 兄は伊豆に流されて おのれ一人は鞍馬山
と歌われし不遇の児・牛若丸は遮那王と称して鞍馬山に仏道修行していたが、11歳の時母の訓戒により祖先の系図に感じ平家を滅ぼし父の遺志を達せんと堅い決心を抱いた。
 それより後は、昼は書を読み文を習ひ、夜は僧正谷にて一心に武術に励み、時の来るのを待っていた。京都の天満宮に日参して源氏の再興を祈ったのもこの頃の事であった。
 時に奥州と京都を往辺する金売商人吉次に語ひ、承安4年3月3日の暁(昭和41年より792年前)住み慣れた鞍馬山に別れを告げ、機を見て兄頼朝に謁せんと憂き旅の東下りの途につき、吉次下総の深栖陵助頼重等と共にその夜鏡の宿につき、吉次の常宿白木屋に投宿することになった。
 牛若丸つらつら考えるに道中安全を期するには元服し、東男に粧ふに若くはないと吉次、陵助と語り、元服に際して烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして烏帽子を進めた。其の夜この池の清浄水を汲み取り、前髪を落飾し源九郎義経と名乗った。
 時に歳16歳、これが元服池の由来である。かくて烏帽子を戴き源氏の武運長久を鏡神社に祈った。当地こそ武人としての義経出生の地である。

元服の池

源九郎判官義経公元服之池碑

東下りの途(承安4年3月3日)当鏡の宿にて元服加冠の儀を行う、その時に使いし水の池なり