当山は昔、天台宗林光山西教院と称したが、住職の專阿上人が浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修業された縁で、 宝治2年(1248)記主良忠禅師が当山で大いに浄土教を宣布された。それ以来当山は浄土宗となった。
 このため、記主良忠禅師を開基とし、專阿上人を第2代とした。 第3代道阿玄忍上人の時、前期両聖人に因んで寺号を両聖寺と改めた。 その後寺院は度重なる火災に遭い、本尊の阿弥陀如来も焼失し、幾多の災厄変遷を重ねてきた。
 寛永2年(1625)に第18世完誉月帚上人は阿弥陀三尊仏を寺に奉納し、開眼法要を営まれた。
 明治40年(1907)両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀された。 今でも中の瀬古の獅子を八幡獅子と言うのはこのためである。 また、お盆には寺の境内で市の無形文化財の 「つんつく踊り」 が披露される。

 司馬江漢が 「誠に田舎の踊りなりけり」 (文化12年(1815)刊行 「西遊旅譚」)と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛などの囃子に合わせて円陣をつくっていくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。
 その記録は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固める時に村人が踊ったのが始まりとも、また、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実蓮寺境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振り付けたものともいわれているが、定かではない。
 大正時代末期までは、8月14日から17日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の4町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、4日ともに唄う歌が異なる上、日によって決まっていたというが、現在は中之瀬古町によって8月第2土曜・日曜日に漁聖寺の境内で催されるのみとなり、両日共に同じ唄が歌われている。

開山浄土宗第三祖記主良忠上人碑

地蔵菩薩

林光山と刻まれた手水石

地蔵堂

十三重塔

弘法大師

役行者

鐘楼

つんつくおどり説明

両聖寺本堂

両聖寺由緒

両聖山門