この地、鈴鹿川の北安楽川との合流点にあって、安全な堤防がない為、毎年夏期の水害には、耕地・住宅の被害甚だしく人名を失ったことも屡次、幾度かの堤防建設の訴願も、南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主許す所とならず、強いて行えば打首の極刑に処せられる。されど、毎年の如く被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に耐え難く、如何なる処刑をも恐れず築堤せんとした。この時に当たり菊女という乙女、打首の刑を犯す築堤は、男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障を来す。この工事は、私等の死出の仕事にしましょうと絶叫した。これに同じた女衆二百余人、暗夜を選んで工事を続け、苦心惨憺六年遂に完成、今日の美田、安住の地を得たるに到った。
この事、いつしか藩主の知るところとなり、処刑の日は来た。今しその第一番者菊女が断頭の座についた刹那、家老松野清邦の死を期しての諫による赦罰の早馬駆け来たり既に覚悟した二百余名の命は助けられ、あまつさえ、築堤の功を賞して金一封と、絹五匹を贈られた。実に女の一念岩をも通した美挙である。
茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ
篆額 三重県知事 田中覚 書 出撰並書 水谷潔
昭和33年4月
明治33年(1900)の神戸領界石
女人堤防碑文
女人堤防碑