当山は真言宗新義豊山派の寺である。戦前は泊山の中腹にあったが、昭和16年(1941)泊山に海軍の施設が出来るため、この地に移転した。
当山は聖武天皇の御代(724-49)の天平年間に行基菩薩が開かれたと伝えられている。本尊の聖観世音菩薩は弘法大師が当山に立ち寄られたときに彫られた一刀三礼の作であるといわれている。
昔、熊野権現が花山法皇をともなって当山に立ち寄られ、本尊を拝まれた時、本尊の御身から明々と光明が輝いた。このため、法皇は寺号を 「光明寺」 と称するよう勅された。
織田信長の伊勢攻めの時、この寺も焼き払ったが、のちに心境法印が紀州藩や信者から寄進を仰ぎ、堂塔を再建した。
境内の観音堂は西国三十三番の霊場を模した三十三体の観音の石像を安置した御堂である。また、大師堂は西国八十八ヶ所の霊場に準えた八十八体の弘法大師像が祀られている。
光明寺由緒
光明寺本堂
本堂に掛かる囲瀬山の扁額
地蔵堂の地蔵菩薩
鐘楼
西国三十三所観音を祀った観音堂
八十八体の弘法大師が祀られた大師堂内陣
大師堂
本尊聖観世音菩薩が祀られた本堂内陣