鐘楼
本堂に掛かる日永山の扁額
興正寺本堂
当山は浄土真宗高田派で、創建は貞観6年(864)と言われている。 登城山にあったときは天台宗であったが、文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗した。
その後200年くらいして、本山の第10世真慧上人が津の一身田に本山を定められ、高田派となった。 天文13年(1544)本山第12世堯慧上人は当寺で 「日永千部」 という本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有力な末寺となった。
天正2年(1574)現在地に移る。 堯慧上人は織田信長にも治安維持を願い、滝川一益が興正寺に対して出した 「日永興正寺四至傍至の事」 という寺領を与える文書、
豊臣秀吉の寺内 「禁制状」 などを有している。 また、徳川家康もこの寺を保護するよう配慮した。
天白川がこの寺を囲むように曲がっているのも瀧川一益が堀の役目をするようにしたと言うことで、この堤を昔の人は滝川堤とも言った。
興正寺由緒
興正寺山門
手水舎
御堂内の仏像と英霊位牌
御堂に掛かる染○堂の扁額
御堂