一里塚は、慶長9年(1604)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。
江戸日本橋を起点として、36町を一里(約4㌔)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。 享和3年(1803)に作成された 「東海道亀山宿分間絵図」 によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
その近くに 「御馳走場」 と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、 現在も 「東百里屋(ともりや)」 という屋号で呼ばれている家がある。
この地から、江戸へおよそ百里(約400㌔)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。
平成13年10月 中冨田一里塚保存会
中冨田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。 享和3年(1803)に作成された 「東海道亀山宿分間絵図」 には、中冨田村川俣神社の東隣に街道を挟んで 「一里塚」 が描かれている。
大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。
平成13年10月 中冨田一里塚保存会
中富田一里塚説明
中富田一里塚説明
中富田一里塚跡碑 ・ 従是西亀山領(領界石)