メニュー
前へ   大田原~芦野

奥州街道   (芦野~白河


平成30年10月22日(月)   ☀    芦野~白河    18.0㎞
昨日は那須陽光ホテルに突然の宿泊のためホテルの夕食は無く、昨日コンビニで買った食料で済ませ、今朝はまた朝食が用意される時間前の出立だったため、これまた残りの食料で軽く済ませて出かけることとなった。天気は快晴が続くとのことで快適な街道歩きが期待できそうである。
ここから先は白坂宿を経て、終点の白河宿までの二宿である。

那須陽光ホテル 大石燈籠 八幡社 旧道
那須陽光ホテルは、高原リゾートホテルで部屋からは那須陽光ゴルフクラブを見下ろし、遠くに那須連山を望むところに建っている。 日の出とともにホテルを出発し、街道に出ると昨日の続きは大石燈籠からスタートである。
この旧道は、直ぐ先で国道294号線に合流する。
街道を進むと右手の斜面に石段があり、上り詰めると朽ちた社の八幡社がある。
八幡社の由緒等は不詳であるが、社には奉還宮八幡大神と石造合掌地蔵尊が祀られている。
先に進むとパイプフェンスの続く箇所があり、この右手が旧道であったが、田んぼの縁を歩くような道であり気付かずに直進した。
この田んぼの中にあるのが、べこ石である。

植栽 神社 地蔵菩薩坐像 間の宿寄居
国道294号線の歩道上に何か意味を持った形の植栽が並んでいる。
鳥の形に見えるので調べると、那須町のシンボルの花はリンドウ、木はゴヨウマツ、鳥はカッコウということで、これはカッコウを表しているものと思われる。
街道を進むと櫛田石材加工所を過ぎた右手に石造物があり、狛犬の先の石段を上り詰めた所に石祠がある。
石造物は、六地蔵石幢や明治・大正・昭和の馬頭観音である。
続いて右手に明和8年(1771)の地蔵菩薩坐像と明和9年(1772)の如意輪観音が刻まれた
笠塔婆がある。
この地蔵菩薩坐像は、間の宿寄居の江戸口に鎮座している。
地蔵菩薩坐像の前のY字路を左折すると寄居集落が北西に延びている。
Y字路には、木製道標 「←白河の関跡6.5㎞ ・ 芦野(遊行柳)5.2㎞→」 があり、Y字路を左折すると直ぐ右手に湯殿山常夜燈が建っている。
間の宿寄居は、陸奥との国境に近く軍事的に重要な地であり、武士たちが寄り集まったことから、寄居の地名が付けられたという。

與楽寺 神社 問屋場跡 茶屋本陣跡
湯殿山常夜燈の先を進むと右手段上に真言宗智山派の抜苦山補陀洛院與楽寺がある。
與楽寺は、天文15年(1564)宥寛大阿闍梨により開創されたと言われている。
境内には、観音堂のほか、延享2年(1745)の地蔵菩薩坐像、寛政9年(1797)の聖観世音碑、六地蔵石幢などの石造物や推定樹齢170年の山桜がある。
街道に戻って進むと、左手の奈良川に架かる橋の渡詰めに鳥居がある。
鳥居の周囲には、出羽三山碑や馬頭観音があり、鳥居の先には大岩を削った階段があり、上ったところに青面金剛の庚申塔が建っている。その奥に参道は続いているが、倒木があり踏み込むのはやめた。
街道に戻ると左手に松本家がある。
松本家は問屋を勤め、寄居西組の名主を兼ねていた。
松本家の隣に大島家がある。
大島家は、茶屋本陣を勤め、寄居町組の名主を兼ねていた。

道標 泉田の一里塚跡 旧道口 寄居集落
先に進むと国道294号線に合流する。
ここには 「関東ふれあいの道」 道標と 「白河の関跡」 の道標が建っている。
ここを右手に進んで山道に入ると白河の関に至る旗宿への道である。
国道294号線に合流して先に進むと、左手に泉田の一里塚跡がある。那須町には夫婦石・板谷・泉田の三か所の一里塚があり、この一里塚はその最北端に位置している。
ここは江戸日本橋から数えて45里目の一里塚跡である。
泉田の一里塚跡の斜向かいに旧道口がある。脇には白河12㎞の道路標識があり、旧道は国道294号線の段上を通り、その先で再び国道294号線に合流する。 先に進むと左手に寄居集落が見え、奈良川に架かる橋を渡って集落に入る。
橋の手前には、木製道標 「←寄居大久保」 が建っており、渡り詰め一本目の道には木製道標 「この先300m初花清水→」 が建っている。
街道は、その先二本目の道を進んでいく。

大久保村南口 山の神 石仏石塔群 初花清水
橋から二本目の道が、寄居集落の中を通る旧道であり、ここは、かつての大久保村の南口である。当時の大久保村の家数5軒であった。
集落の入口右手には、馬頭観音が5基無造作に集められて放置されている。
集落の突き当りの小屋の前に山の神碑が置かれている。 寄居の集落を抜けて橋から一本目の道と合流すると、右手に石仏石塔群が並んでいる。
二十三夜塔、如意輪観音、地蔵菩薩立像、文化元年(1804)の念仏供養塔、文久元年(1861)の足尾山道標、馬頭観音などである。
先に進むと右手に初花清水がある。
歌舞伎 「箱根霊験いざり仇討」 の主人公棚倉藩士飯沼勝五郎は兄を滝口上野に殺され、同じく上野を父の仇としていた初花と夫婦となった。仇を探し求めているうちに足を病んだ勝五郎は村人に助けられ、崖の隙間から清水が流れ出るこの地に小屋を建て療養につとめた。
ここには初花清水が流れ、初花清水碑が建っており、東海道の箱根には、初花が本懐を祈願した 「初花ノ瀑碑」 が建っている。

国道合流・瓢石 戸板橋 旧道口 石塔群
初花清水の先で国道294号線に合流する。
この合流点の左手に、瓢石と瓢石道標 「瓢石 勝五郎旧跡初花清水従是二丁」 及び馬頭観音が建っている。勝五郎は療養の傍ら、手慰みに道の面や崖の岩肌に文様のように瓢石を刻んだ。
無事、本懐を遂げた二人の墓は東海道箱根路東坂の鎖雲寺にある。
国道に合流して進み、右側に流れる奈良川に架かる戸板橋を渡っていく。 戸板橋を渡ると程なく右手に旧道がある。ここは中山村の南口であり、左手に木製道標 「この先100m明治天皇御小休所」 が建っている。 旧道を進むと左手の段上は墓地になっており、街道に面して無縁供養塔・文久3年(1863)の馬頭観世音などが並んでいる。

明治天皇碑 山中集落 馬頭観音 旧道口
先に進むと正面に鈴木家の白壁の蔵が目に飛び込んでくる。
明治天皇は山形秋田両県及び北海道巡幸の際、二度鈴木家で休息している。蔵の前には明治天皇山中御小休所碑が建っている。
鈴木家の先は直線の道が集落を貫いており、その先で国道294号線に合流する。
当時、山中村は家数8軒であった。
国道294号線に合流してどんどん進んでいくと、右手に大きな安政6年(1859)の馬頭観音が建っている。
周囲には風化の進んだ馬頭観音などが点在している。
馬頭観音を過ぎると、左手に旧道が残っている。この道は舗装はされているが、整備されておらず、踏み込んで行くと途中から藪道となり、国道の段上を通り、その先で明神の地蔵様の前に出て国道に合流する。

明神の地蔵様 温泉神社 街道家並み 玉津島神社
国道に合流すると左手段上に明神の地蔵様(地蔵菩薩坐像)が建っている。
先に進んで段上に上がってみると、享保14年(1729)の地蔵菩薩坐像、延享3年(1746)の如意輪観音、宝暦14年(1764)の光明真言三百万遍供養塔などが街道を見下ろしている。
明神の地蔵様の直ぐ先、左手に享保10年(1725)の庚申塔らしき石塔があり、その奥に温泉神社がある。
社殿は鳥居の先の急斜面を上った山中に鎮座しており、参道は枝木に覆われた急斜面で危険なため踏み込むのはやめた。
温泉神社の先は緩やかに上る坂道となっている。 先に進むと上り坂頂上の手前左手に境の明神と呼ばれる玉津島神社がある。
玉津島神社は、天喜元年(1053)紀州和歌浦の玉津島神社から勧請した峠神であり、奥羽側の住吉神社と並立している。
境内には、境の明神大日如来像、水神宮大権現などがある。

国境 住吉神社 白河二所之関跡 衣がえの清水
峠の頂上左手に福島県白河市標識、右手に那須町標識が建っている。
ここが下野国(栃木県那須町)と陸奥国(福島県白河市)の国境であり、右手段上には、領界石 「従是北白川領」、界碑 「栃木県那須町・福島県西白河町」 が建っている。
峠を越えると左手段上に境の明神と呼ばれる住吉神社がある。
住吉神社の創建年代は不詳であるが、文禄4年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは弘化元年(1844)の小祠である。
境内には、明治7年(1874)・慶応2年(1866)・弘化2年(1845)などの石燈籠のほか、芭蕉句碑を始めとした5つの句碑がある。
住吉神社の街道を挟んだ向いの段上に白河二所之関跡がある。
ここは中世の白河関跡で、ここにはお休所南部部屋七兵衛があった。八戸藩主南部直房が参勤交代の度に境の明神に詣でた後、この茶屋で名物の千台餅を賞味したことから南部屋と称した。段上に上がると南部部屋碑、白河二所之関址碑が建っている。
峠道を少し下ると左手に道標 「衣がえの清水」 があり、左手に下りて行くと街道下から湧き出る清水がある。
ここは、「衣が井」 とも呼ばれ、弘法大師がこの清水で身を清め衣替えをしたと言われる。一説には弘法大師が持っていた杖を刺すと清水が湧き出たとも伝えられている。

馬洗場跡 馬頭観音 山の神 石塔群
先に進むと右手の沼地の前に白坂宿馬洗場跡看板がある。
白河歴史研究会が建てたもので、ここで伝馬に使用した馬を洗ったところという。
緩やかな下りの街道を更に進んでいくと、右手の林が途切れた辺りに風化が進んだ馬頭観音が建っている。 馬頭観音の先左手のギャラリー&カフェ 「アート三文館」 の先を更に進んでいくと、左手の林の前に木製鳥居があり、踏み込んで行くと丘上に大正7年(1918)の山の神石祠がある。 街道に戻ると程なく左手斜面に石塔群がある。
六地蔵石幢、慶応4年(1868)の大勢至菩薩・南無妙法蓮華経題目碑、文化10年(1813)の馬頭観音、寛政2年(1790)の大乗妙典日本廻国供養塔などである。

念仏供養塔 おくのほそ道碑 大垣藩士戦死之跡碑 白坂宿
続いて左手斜面に白坂町講中廿人が建立した享保18年(1733)の念仏供養塔が建っている。 念仏供養の直ぐ先にT字路があり、この右手筋角に小さな 「おくのほそ道」 碑が建っている。ここは旗宿道の追分であり、松尾芭蕉はここから白河の関跡を訪ねた。石塔群のところにあった道路標識によると、白河の関まで6.5㎞である。 T字路の左手に大垣藩士戦死之跡碑が建っている。戊辰戦役で大垣藩士酒井元之丞重寛は、奥羽越列藩同盟軍の襲撃を受け、胸に被弾して戦死した。墓は別に観音寺にある。
ここには石祠、常夜燈、文化4年(1807)の己需供養塔がある。
追分の先から白坂宿の家並みが続いている。
白坂宿は、芦野宿と白河宿の間が長いため新設された宿場である。天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると宿内家数は71軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。
宿内に入ると各戸の前に屋号碑が建っている。

白坂宿本陣跡 白坂宿脇本陣跡 旅籠亀屋跡 観音寺
白坂宿を中程まで進むと横断歩道の左手に植栽のある大きな家がある。
この家が御本陣問屋の白坂周右衛門跡である。建坪170坪で庄屋を兼ね、天明6年(1786)幕府道中奉行の命により奥州道中10宿の駅路取締役を勤めた。
本陣跡から二軒隣が白坂宿脇本陣跡である。屋号碑は建っていないが、屋号は 「岩井屋」 といい町役人を兼ねていた。 白坂宿脇本陣跡の街道を挟んだ向かいが、旅籠かめや弥五右衛門跡である。
門柱に 「かめや」、屋号碑に 「亀屋」 を掲げている。
先に進んで白坂郵便局を過ぎると、左手に天台宗の白坂山照明院観音寺がある。
観音寺は、応永15年(1408)、円順和尚によって開山と伝えられている。境内には観音堂・薬師堂のほか、墓所には白坂若野屋の長子・大平八郎などの墓がある。観音堂は、夕日堂と呼ばれ、古くから金売吉次の埋蔵金伝説が残る御堂である。

観音菩薩 大ケヤキ 馬頭観音 峠道
街道に戻ると県道との交差点左角に交通安全観音菩薩が建っている。 県道との交差点を越えて上り坂の峠道を進むと、右手に大ケヤキがあり、その間に木製鳥居がある。鳥居の奥の段上には石祠が一基祀られている。大ケヤキの4~5mほど左には小さな馬頭観音が建っている。 更に峠道を先に進むと右手に馬頭観音が大小4基建っている。
文久元年(1861)の馬頭観世音大菩薩、昭和57年(1982)の牛頭観世音、その碑に隠れて大正11年(1922)の馬頭観世音、苔むした馬頭観音が建っている。
馬頭観音の先は山間の道が続き、下り坂になると左手に那須連山の山並みが見えてくる。

山久保稲荷神社 皮籠集落 八幡宮 金売吉次の墓
先に進んで信号交差点を越えると白坂皮籠(かわご)の集落に入り、交差点を越えた直ぐ左手奥に山久保稲荷神社がある。
山久保稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内には山窪稲荷神社の扁額が掛かる拝殿があり、その隣に小社があり、沢山の狛狐が祀られている。
皮籠村は、金売吉次が砂金を入れた 「皮籠」が地名の由来となっており、白坂宿の加宿で立場があった。 集落を進むと左手に石造物が並び、その奥に八幡宮がある。源義経は平泉に下る手引きをした金売吉次への恩から盗賊どもを討ち果たし、吉次兄弟の霊を弔い合祀したことから 「吉次八幡」 と呼ばれた。
八幡宮の前に建つ石造物は、大正5年(1916)の金売吉次兄弟古墳碑・庚申塔・弘化4年(1847)・文久2年(1862)の十九夜塔、文政8年(1825)の石仏などである。
八幡宮の脇の道を300mほど入った左手の林の中に金売吉次兄弟の墓がある。
元治元年(1864)の施設された石囲いの中に、三基の宝篋印塔が建っていおり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の墓である。
承安4年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われて殺害されたと伝えられている。

地蔵菩薩坐像 馬頭観音 南無阿弥陀仏名号碑 馬頭観音
街道に戻って進むと、左手の林の前に享保18年(1733)の地蔵菩薩坐像が建っている。
傍らには、六地蔵石幢、享保2年(1717)の地蔵菩薩などがある。
地蔵菩薩坐像の直ぐ先、左手に青栗毛と刻まれた昭和26年(1951)の馬頭観世音が建っている。 先に進むと程なく左手筋角に南無阿弥陀仏名号碑が建っている。この筋奥は墓地となっており、墓地の入口に六地蔵尊があり、傍らに馬頭観音が数基建っている。
南無阿弥陀仏名号碑から200mほど進むと、左手の一里談溜池の前に風化の進んだ馬頭観音が数基並んでいる。
一里段の地名は、皮籠の一里塚に由来するもので、江戸日本橋から数えて47里目の一里塚があったところである。

題目碑 新白河ニュータウン 小丸山溜池 旧道口
先に進むとT字路信号交差点を過ぎた下り坂の左手筋角に寛政5年(1793)の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
ここは、地元で首切り塚と呼ばれる皮籠の刑場跡といわれている。
先に進み三輪台団地バス停を過ぎると、再び緩やかな上り坂となり、左手に新白河ニュータウンの家並みが続いている。 緩やかな坂道をどんどん進んで上り詰めた辺りの左手に小丸山溜池がある。 小丸山溜池の向いに旧道口がある。
この旧道は500mほど先で再び国道294号線に合流する。旧道に入って200mほど進んだ左手に明治32年(1899)の馬頭観音が建っており、先祖代々之供養と刻まれている。
馬頭観音を過ぎると、左右に田んぼが広がっている。

セント・ミッシェル礼拝堂 白河宿江戸口 長州大垣藩戦死六名墓 稲荷山公園
国道294号線に合流して直ぐ、国道289号線との交差点を横断するが、この右角にセント・ミッシェル礼拝堂が建っている。 国道289号線を渡ってどんどん進んでいくと、会津藩戦死墓に突き当たり、街道はこの前を直角に右折して行く。ここは白河城下の江戸口(南口)に当たり、丹羽長重入封以前は直線だったが、敵からの防御を重視して長重が作り替えたものである。
ここには戦死墓・銷魂碑・田辺軍次君之墓がある。
鎮魂碑等の街道を挟んだ向かいに、長州藩・大垣藩六名の墓がある。
当初は薩摩藩兵7名も埋葬されていたが、薩摩藩が大正4年(1916)に小峰城東側に戦死者を合葬したため六名墓となった。
白河宿江戸口を右折して行くと、左手に稲荷山公園がある。
稲荷山公園の中腹には 「戊辰之碑」 があり、隣に戊辰戦争白河口の戦い戦死者全員の名が刻まれた碑が建っており、山上には幕末の会津藩家老・西郷頼母の歌碑が建っている。

権兵衛稲荷神社 九番町 八雲神社 金刀比羅神社
稲荷山には、権兵衛稲荷神社が鎮座しており、参道口は、稲荷山を回り込んで進む街道脇にある。
権兵衛稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内にはたくさんの狛狐が並び、拝殿裏の段上には南無七面大明神・馬頭観音・大日如来などの石造物がある。
街道に戻るとT字路に突き当たり、街道は左折して九番町を進んでいく。 先に進むと右手筋の奥に鳥居が建ち、その奥の丘上に八雲神社がある。
八雲神社の創建年代等は不詳であるが、村の鎮守であり、鳥居は天明6年(1786)、その手前の狛犬は昭和10年(1935)のものである。林に覆われた参道を上って拝殿前に出ると、文化元年(1804)・昭和12年(1937)の石燈籠などの石造物がある。
街道に戻って進み七番町に入ると、左手の風神山の麓に金刀比羅神社が鎮座している。
金刀比羅神社の創建年代等は不詳であるが、境内には安永8年(1779)の鳥居のほか、寛政3年(1791)の常夜燈、文政8年(1825)の十九夜塔などの石造物がある。

西宮神社 南湖橋 藤屋・高湯山道標 万持寺
先に進んで三番町に入ると、左手筋奥に西宮神社がある。
西宮神社の創建年代等は不詳であるが、境内には千魂佛堂があり、周囲に安政6年(1859)の十九夜塔、天保14年(1843)の大勢至菩薩碑のほか、半分地中に埋まった供養塔がたくさんある。
先に進むと程なく谷津田川(やんたがわ)に架かる南湖橋がある。谷津田川は、那須連山の赤面山に源を発し、白河市内を流れて下流で阿武隈川に合流している。
流域には、江戸時代後半より昭和初期まで精米をはじめとする水車が多く存在し、多い時は43基を数えたという。
南湖橋を渡ると左手一本目の筋角に、天保元年(1830)創業の味噌醤油醸造店の藤屋がある。
藤屋手前の左に入る筋は原街道で、左手角に天保9年(1838)の高湯山道標が建っており、正面に 「高湯山 右那須道」、左面に 「左 江戸海道」 と刻まれている。
高湯山は、那須嶽信仰の名称である。
藤屋から100mほど先の右手筋奥に曹洞宗の筑波山万持寺がある。万持寺は、天正3年(1575)得峯和尚によって創建されたと伝えられ、その後、万治元年(1658)呑陂和尚が中興し、寺号を万治寺としたが、のち 「治」 を 「持」 に改めた。
境内には不動堂があり、大小二体の不動明王像が祀らている。

奈良屋 虚空蔵堂 天神神社 月夜見の庭
街道に戻って進むと、右手筋角に明治14年(1881)創業の呉服店・奈良屋がある。
奈良屋は、歴史風致形成建造物に指定され、店頭には新町解説が建っている。
奈良屋の手前の筋を右に入ると、右手に慈久山虚空蔵堂がある。
御堂には、法雲寺に伝来した鍍金装笈(ときんそうおい)が保管されている。笈は、修験者が布教で各地を巡る際、仏像や衣服を入れたりする箱である。境内には、石祠・庚申塔・十九夜塔などの石造物がある。
街道に戻って先に進むと変則十磁路があり、街道は右折するが、ここを左折すると突き当りの高さ11mの天神山に天神神社がある。
天神神社の創建年代等は不詳であるが、城下町の西の基点であるとともに、城下を土塁で囲む「惣構え」の一部をなすなど、町の成り立ちに重要な役割を果たしたと考えられている。かつて存在した 「白河七天神」 の一つである。
境内には、月読尊碑・聖徳太子碑・足尾山神社碑などの石造物がある。
変則十字路に戻ると左角に月夜見の庭がある。庭には、白河石が敷き詰められている。
この石材は、西郷村柏野地区道場窪 「田中石材店」 の 「黒目」 という白河石の中でも傑出したものである。この 「黒目」 は、水を打った時に美しく、蒸散作用で歩く足元が涼やかに感じられるという。

今井醤油店 松河屋 金屋町 月心院
先に進むと右手に歴史的風致形成建造物の今井醤油店がある。今井醤油店は、江戸時代末期頃に今井清吉氏によって創業された。
江戸時代には、当地において魚屋、乾物屋を営んでおり、文政6年(1823) 「天神町絵図」 には 「肴商売武兵衛」、天保年間(1830-44)絵図には 「肴屋清吉」 と記されている。醤油製造を営むようになったのは、4代目今井清吉代の江戸時代末期と伝えられ、現当主で8代目を数える。
今井醤油店から程なく左手に歴史的風致形成建造物の松河屋がある。松河屋は、明治期に安田孝之助氏によって創業された味噌・醤油の醸造店で、昭和40年頃まで営業を行い、その後は酒の小売店となった。建造物群は、醸造業を営んでいた時代の蔵が2棟残されている。通りに面した蔵は、明治25年(1892)に建築されたもので、屋根まで漆喰で塗り込めた形式の蔵屋敷で城下町らしい風情を醸し出している。 松河屋の向いの筋を南に入っていくと、奥州街道の天神町に並行する金屋町に入る。
金屋町に入って直ぐ、十字路左手に解説があり、「白河風土記」(1805年完成)によれば家数は28軒であったと記されている。
金屋町解説の建つ十字路を更に南に進むと、右手に曹洞宗の福聚山月心院がある。
月心院は、白河結城氏12代義親が、天正14年(1586)に母の七回忌に合わせて創建し、母の法号 「福聚院月心宗悟大姉」 から寺号を取ったと伝えられている。
当初は関川寺境内にあったが、白河藩主松平基和の時に現在地に移されたという。

妙徳寺 戦死供養塔 妙関寺 圓養寺
月心院の南側に浄土真宗大谷派の法永山妙徳寺がある。妙徳寺は、常陸の豪族が同国内に建てた妙徳寺が前身と伝えられている。
慶長年間(1596-1614)に白河城代の町野長門守が、この寺を八幡小路に招いた後、歴代藩主の命や火災によって二番町と金屋町の地を度々移転したという。
境内には、天文学・測量術・和算に秀でた市川方静の墓がある。
妙徳寺から50~60mほど南側にある妙関寺へ行く途中に、戊辰戦争での戦死者を供養する小さな石塔が建っている。 妙関寺は日蓮宗の寺院で、江戸時代の白河藩主・松平大和守家の位牌を祀っていた永寿寺が、大和守家の転封とともに姫路に移されたため、その跡地に創建されたと伝えられている。
境内には、推定樹齢400年の乙姫桜(紅枝垂れ桜)のほか、鬼子母神堂・愛宕神社・浄行菩薩などがある。
街道に戻って天神町屋台会館を過ぎると、左手に真言宗智山派の成田山圓養寺がある。圓養寺の創建年代等は不詳であるが、享保14年(1729)の火災で本堂が焼失したと伝わっている。
江戸時代には、「連峯山福寿院」 と称していたが、明治3年(1870)千葉県の成田山新勝寺から不動明王を勧請して成田山圓養寺と改称した。

松井薬局 中町枡形 関川寺 大谷家住宅
圓養寺に隣接して歴史的風致形成建造物の松井薬局がある。松井薬局は、江戸時代末期の文久年間(1861-64)に安田信義氏によって松井薬舗として創業され、明治12年(1879)当地に移転した。
二代目安田平助(敬止)氏は、薬種問屋の傍ら大正7年(1918)から11年までの間、白河町長を務めている。
先に進むと中町の枡形道に突き当たり、街道は左折して直ぐ右折して行く。
この枡形には、奥州街道解説と現在地周辺地図が掲示されている。
突き当たった中町枡形を左折せず、右折して南に進むと曹洞宗の東光山関川寺がある。
関川寺は、当初、天台宗の福寿山関銭院と称していたが、明応元年(1492)白河結城氏6代直朝が曹洞宗に改め、天正9年(1581)に旧地である関川窪から現在地へ移転したと伝えられている。境内には、町民に時刻を知らせていた宝暦11年(1761)の銅鐘があり、墓所には結城宗廣の墓がある。
街道に戻って中町枡形の先を進むと、右手に歴史的風致形成建造物の大谷家住宅がある。
大谷家は、元々味噌醸造を営む商家であった。
明治後期に大谷忠吉本店から味噌醸造店として分家・創業し、昭和52年頃まで営業していた。
奥州街道に面した2棟の蔵は、創業当時の明治後期に建築されたもので、内部空間は土間を持つ店舗や座敷蔵となっており、主屋分部は中庭に連続する伝統的な町家建築となっている。

大工町 皇徳寺 中町郵便局 敷教舎跡
先に進むと県道18号線との信号交差点があり、街道は直進するが、ここを右折すると街道に並行する裏道に大工町解説が建っている。 大工町の通りを東に50mほど進むと、右手に臨済宗妙心寺派の大白山皇徳寺がある。
皇徳寺は、大同年間(806-10)に法相院の勝道和尚により創建された勝道寺が始まりと言われている。その後、平安時代末期に三十三間堂などの建立とともに再興され、「大白山天恩皇徳寺」 と改め、江戸時代初期にこの地に移ってきた。境内には、新選組隊士菊池央の墓、徳利の形をした小原庄助の墓などがある。
街道に戻って進むと右手に中町郵便局があり、建物内に白河提灯まつりで町内を引き廻す山車が収蔵されている。 中町郵便局から一軒隣の駐車場辺りが、白河藩主松平定信が建てた敷教舎跡である。
ここには解説板と現在地周辺地図が掲示されている。

枡形道 脇本陣柳屋跡 本陣芳賀家跡 勧工場建物跡
敷教舎跡の先で右説して、直ぐ左折する枡形道がある。 枡形道を抜けると左手に奥州白河宿公園があり、白河宿脇本陣柳屋旅館跡が建っている。ここには明治天皇白河宿行在所附御膳水碑が建っており、明治天皇は明治14年(1881)の巡幸の際にここで休憩されている。 脇本陣柳屋旅館跡の街道を挟んだ斜向かいに本陣芳賀家跡がある。
白河宿の本陣は、この地にあった本町の芳賀源左衛門家が代々務めた。明治9年(1876)明治天皇の第1回東北巡幸の際には休憩所とされた。本陣芳賀家の表間口は当時約16間余り(約30m)であった。
本陣芳賀家跡の街道を挟んだ向かいに歴史的風致形成建造物の勧工場建物跡がある。
明治10年(1878)、東京上野で第1回内国博覧会が開催され、陳列所で売れ残った出品物を販売した。この陳列館が 「勧工場」 と呼ばれ、全国の都市に流行した。この建物が明治末に建てられた勧工場 「小槌屋商会」 跡で、白河にいおける初めての百貨店の建物である。この建物は一部改修されているが、当時の原形を比較的留めている。

萩原朔太郎の妻の生家 永蔵寺 長寿院 岩淵悦太郎生家跡
先に進むと左手に萩原朔太郎の妻・美津子の生家がある。この地は、日本を代表する大正・昭和期の詩人である萩原朔太郎ゆかりの地である。当地の大谷忠一郎は、家業の酒造業を営みながら詩人として活躍した。忠一郎は、萩原朔太郎にも師事し、「北方詩人」 などを主宰した。萩原は、当地の忠一郎のもとを度々訪ねており、そのような縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938)に結婚した。 萩原朔太郎の妻の生家の斜向かいに細い路地があり、ここを南に80mほど入ったところに天台宗の星琳山運光院永蔵寺がある。
永蔵寺は、鎌倉時代末期、罪人として白河の結城宗広に預けられた僧円観が宗広の崇敬を受けて弟子の永意を留めて寺を建立したという説のほか、楠正成が後醍醐天皇から賜った千手観音を結城宗重が、観音を安置する為に寺を建立したという説がある。
永蔵寺へ向かう細い路地を戻って街道に出ると、街道を挟んだ向かいに慶応戊辰殉国者墳墓の標柱が建っており、その奥に曹洞宗の亀岳山長寿院がある。
長寿院は、もと石川郡小高村(現玉川村)に建立されたが、江戸中期の白河藩主松平大和守家の菩提寺孝顕寺の住職がこの地に再建したと伝えられている。境内には、戊辰戦争で戦死した官軍(西軍)兵士87名の墓がある。
街道に戻ると直ぐ先の信号交差点手前に岩淵悦太郎生家跡がある。岩淵悦太郎は、現代日本語の生態の科学的研究方法の基礎を作った国語学者である。
悦太郎は明治38年(1905)に白河の本町で酒造業を営む「岩淵屋」に生まれ、少年期に東京に引っ越し、東京帝国大学を卒業の後、国立国語研究所の所長などを務めた。昭和53年没。

四辻道標 専念寺 白河だるま 津島神社
岩淵悦太郎生家跡の信号交差点右角に嘉永2年(1849)建立の道標が建っている。
道標には、西面に 「左 せんだい あいづ でハ ゑちご 道」、北面に 「右 日光 江戸、左 たなくら いハき 道」 と刻まれている。
四辻道標を左折して横町に入ると、信号交差点を渡った左手に浄土宗の大慈山専念寺がある。専念寺は、出羽国最上出身の徳庵和尚が、慶長年間(1596-1615)に法華経一万部供養を行ったときに開山したと伝えられている。境内には地蔵堂、徳庵の法華経一万部供養を記念した石碑のほか、徳川家康とゆかりのある中根家5代・6代の墓や蜩塚・和知風光の墓などがある。 専念寺から街道に戻ると白河だるまの佐川だるま製造所がある。白河だるまは、時の白河藩主松平定信が城下の繁栄を図り、だるまの技術を習得させたのが始まりである。
現在のだるまは谷文晁の発案で、まゆは鶴、ひげは亀、あごひげは松、びんひげは梅、顔の下は竹を模様化し全体に福々しい感じである。
先に進んで東北本線の高架をくぐると、田町に入り右手に津島神社がある。津島神社の創建年代等は不詳であるが、拝殿には津島神社のほか、子安稲荷神社・小峯天神神社・笹原稲荷神社の扁額が掛かっている。

田町大橋 名号碑 三柱神社 聯芳寺
津島神社の直ぐ先に阿武隈川に架かる田町大橋がある。阿武隈川は、那須連山の旭岳に源を発し、流路延長239㎞は東北地方で北上川に次ぐ長さの一級河川であり、流末は鹿島灘に注いでいる。
当初は徒歩渡しであったが、元禄2年(1689)大橋が架橋され、白河側に大木戸が置かれていた。
田町大橋の渡り詰め右手には、祐天上人水難殃死者供養法塔(右)と文化元年(1804)祐天上人の南無阿弥陀仏名号碑(左)が建っている。 先進むと左手の鈴木治療院の手前の筋に、風化して判読できない石碑が建っており、その奥の段上に三柱神社がある。
三柱神社の創建年代等は不詳であるが、拝殿内には檜葺きと見られる古びた本殿が祀られている。
三柱神社に隣接して臨済宗妙心寺派の高岳山聯芳寺がある。
聯芳寺は、結城宗広の伯父広綱が娘の菩提を弔うために建立したと伝えられている。もとは太田川(泉崎村)にあったと言われている。
境内には、戊辰戦争で亡くなった福島藩14名の慰霊塔・芭蕉句碑などが建っている。

褜姫(えなひめ)神社 地蔵菩薩 馬頭観音群 女石追分
街道に戻って進むと右手筋の奥に褜姫神社がある。褜姫神社は、兵法家鬼一法眼の息女皆鶴姫を祀る古社である。
源義経を恋い慕う皆鶴姫がここまで追ってきたが、病に倒れこの地で息を引き取った。その時懐中に梅の実があり、里人は遺品としてこれを蒔くと、梅は「八房の梅」となって花を咲かせた。
褜姫神社の先は切通しの道となり、右手の段上に地蔵菩薩などが残されている。
地蔵菩薩の他には、文政5年(1822)の大乗妙典六十六部日本回国塔、青面金剛の庚申塔、薬師如来坐像などがある。
切通しを抜けると左手の竹林の前に、明治から昭和にかけてのたくさんの馬頭観音が並んでいる。 先に進むとY字路となり、右が仙台松前道、左が会津越後道であり、徳川幕府道中奉行の管轄する奥州街道は、この追分までである。

仙台藩士慰霊碑 遊女志げ女の碑
女石追分の左手段上には、明治23年(1890)に旧仙台藩主伊達宗基により建てられた仙台藩士戊辰戦没之碑と明治2年(1869)の戦死供養塔が建っている。 女石追分から右手の仙台松前道に100mほど踏み込んでみると、右手に遊女志げ女の碑が建っている。戊辰戦争時、悲劇の死を遂げた遊女しげについて記す碑で、昭和29年(1954)の建立である。

前へ   大田原~芦野