徳利に胚をかぶせたような形の墓は、会津塗師久五郎の墓である。羅漢に絵を学びに来たが、安政5年(1858)に白河で没した。戒名は 「米汁呑了信士」。辞世の句 「朝によし 昼になおよし 晩によし 飯前飯後 その間もよし」 が墓石に刻まれている。
 この酒好きを思わせる墓石や戒名、辞世の句で、いつの頃からか民謡 「会津磐梯山」 に登場する 「小原庄助」 であると伝えられている。  
   (白河観光物産協会)

 蒲生羅漢は天明4年(1784)に生まれ、谷文晁に絵を学んだ。羅漢山の下に住み、会得した中国や日本の様々な画風の絵を描いたという。酒好きとして知られ、慶応2年(1868)83歳で没した。
  (白河観光物産協会)

蒲生羅漢の墓

 長尾仙鼡の名は隠居後の名で、元は三輪弥右衛門と称した。長尾は先祖の苗字という。父が早逝し、5歳で家を継いだ。のち家老に昇進して千石まで加増された。
 茶道・詩歌・故事などに通じ、白河以外からも教えを請う者が集まったという。享和2年(1802)に80歳で没した。
 なお、現在南湖神社にある福島県指定重要文化財の 「蘿月庵(らげつあん)」 (「蘿月」は蔦の葉の間に見える月の意)は仙鼡の子三輪権右衛門(待月と号す)が父のために建てたもので、松平定信の命名という。
   (白河観光物産協会)

戦死人供養碑 (戊辰戦争戦死者供養碑)

参道途中にある笹原神社

皇徳寺山門

皇徳寺本堂

会津塗師久五郎(伝小原庄助)の墓

 弘化4年(1847)、弘前藩士の家に生まれた。俗名は央五郎(えいごろう)といい、慶応3年(1867)6月以降に新選組隊士となる。
 慶応4年(1868)閏4月25日、白河口の戦いにおいて、白坂を守って22歳の若さで戦死した。
 墓碑の正面に「弘前 菊池 央五郎」、右側面に「慶応4年戌辰閏四月廿五日戦死」と刻まれている。
   (白河観光物産協会)

 白河では、慶応4年(1868)の戊辰戦争における犠牲者を、新政府軍(西軍)・奥羽越列藩同盟軍(東軍)分け隔てなく弔い、多くの供養碑が地元の人々によって建てられている。
 皇徳寺境内の「戦死人供養」とある石碑は、中町の大庄屋桑名清兵衛(ト圓と号す)による明治2年(1869)の建立で、慶応4年閏4月25日と5月2日の戦いで戦死した列藩同盟軍のうち千代町・大工町などに個別に埋葬されていた11人を合葬した際に建てられたものである。
   (白河観光物産協会)

長尾仙鼡(せんそ)の墓

新選組隊士・菊池央(たのむ)の墓 (左)