日本三大提灯まつり(白河・弥彦・一色)の一つに数えられている白河提灯まつりは、白河地方の総鎮守・鹿嶋神社の例祭として四世紀にわたり、白河の人々の心のよりどころとして伝えられてきました。
 現在行われている神輿の町内渡御・提灯行列・山車の引き廻し等の祭りの形態は、徳川家綱時代の藩主・本多能登守忠義が神輿を寄進したことに始まり、祭礼の型も幕府の許可を得て、別名 「儀式まつり」 と言われるほど武家社会の格式を導入した独特の祭りで、白河の伝統文化として受け継がれています。
 隔年9月13日より15日までの三日間執行され、提灯の油紙を通しての火の美しさは神秘的なもので、それが無数集合した行列の流れる姿は見る者の心をとらえて離さない光の芸術であります。

 定信公は、天明3年(1783)10月16日白河藩を襲封した時は、天明の大飢饉の年で藩財政も10万石余の歳入欠陥があった。このため公は、農商工の産業振興政策を強力に推進した。この中で市の振興のため、青物市場や追駒と称する特殊市場の馬市を設け資金の貸付を行った。
 また、花市(旧正月14日の初市)に縁起物のだるまを売物とするため、だるまの絵付をお抱え絵師・谷文晁に画かせたと伝えられている。また、公も 「だるま大師」 の絵を画かれている。これが、福々しいだるまとして全国に名高い 「白河鶴亀松竹梅だるま」 である。眉毛は鶴、髭は亀、耳髭は松と梅、または梅、顎髭は竹または松を表している。だるまには、19種類の大きさがあり、領民は初市でこのだるまを買って神棚に献じ、毎年一廻りずつ大きなだるまに買い替えた。現在は、人出15万人、出店数は600軒、だるまの生産量も15万個におよび、名実ともに日本一のだるま市である。

白河提灯まつり

山車

松平定信公との係り