本町にある奥州街道と棚倉・石川方面の街道が交わる交差点、通称「四つ辻」に建てられていた石造の道標です。
白河城下を東西に走る奥州街道は、ここから北に方向を変え、城下を出た女石の追分で会津街道と分岐し、桑折宿(福島県桑折町)では羽州街道と分岐して仙台方面に向かいました。
この道標は、江戸時代後期の嘉永2年(1849)に建てられたもので、北側・西側・南側の三面に文字が彫られています。奥州街道を下る場合に目にするのは、西側に彫られてる文字、上ってきて四辻に達したときに目にするのは、北側に彫られている文字です。
(西側) 左 せんだい あいづ
でハ(出羽) ゑちご(越後)
(北側) 右 日光 江戸
左 たなくら いハき 水戸
(南側) 嘉永二年己酉四月
白河小峰城は、慶長年間頃に城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代白河藩主丹羽長重によって屋敷地の拡張が図られるとともに、石垣を多用した城郭に改修されました。
城郭の改修と併せて、奥州街道沿いに城下町も形成され、商人や職人が居住して大きな賑わいを見せていました。
城下町は「通り五町」と呼ばれた天神町・中町・本町・横町・田町を中心とし、これに並行して南側に裏町が配置されていました。
記録によれば、寛文年間(1661-73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。福島県では、会津若松城下に次ぐ規模を誇っていました。
市街地には、多くの歴史遺産とともに、当時の奥州街道を中心として町割りが非常によく残されており、今も城下町の姿を偲ぶことができます。
(白河市教育委員会)
奥州街道と白河城下
道標解説
嘉永2年(1849)の四辻道標