白河宿は、江戸日本橋を起点とする奥州街の27宿目にあたります。現在城下を通る街道は、寛永4年(1627)初代白河藩主丹羽長重が、城下町を整備した時の形がほぼ残っているものです。町境ごとに残る鉤形は、敵の侵入に備えた防御の工夫であり、江戸時代の絵図と現在の街道はそのまま重なります。
 記録によれば、寛永年間(1661-73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。
 ここ松並は白河城下の入口にあたり、絵図を見ると道の両側には土塁が築かれ、直角に曲がって町に入る形になっています。丹羽長重入封以前は、直線だったと推測される城下入口を、敵からの防御を重視して長重が作り替えたものです。
   (白河市教育委員会)

 市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応4年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩長大垣等の西軍が大挙して三方から白河を攻めた。
 東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口の激戦地で、閏4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、5月1日、再び来襲したので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
 戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
 この白河街道を左曲する南側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平容保の題字の鎮魂碑がある。
  (白河市教育委員会)

 会津藩(23万石)は戊辰戦争後、わずか一万石で斗南藩(青森県下北郡)に移された。藩士の田辺軍次は、戊辰戦争で会津藩が敗れたのは、白河口の戦いの際、白坂宿の大平八郎が新政府軍の道案内をしたことが原因と思い込み、遺恨を晴らそうと考えていた。軍次は明治3年(1870)7月に斗南を出発、8月11日に白坂に着き、八郎を旅籠の鶴屋に呼び出して斬殺し、その後自害した。
 当初、白坂の観音寺に葬られたが、明治29年(1896)に旧会津藩関係者によって現在地に改葬された。二つの墓石のうち、大きいものは大正11年(1922)に新たに建てられたもので、傍らの小さい墓石が当初のものである。 
   (白河観光物産協会)

戊辰の役古戦場解説

田辺軍次君之墓解説

奥州街道と白河城下解説

大正11年(1922)の田辺軍次君之墓

当初の田辺軍次君之墓

整備記念碑

旧会津藩戊辰戦役殉難諸霊供養塔周辺整備記念碑

戦死墓・銷魂碑解説

(白河観光物産協会)

銷魂碑
 戊辰戦争の際、白河で戦死した会津藩士を供養する碑で、白河口副総督横山主税(ちから)をはじめ、海老名衛門など304名の名が刻まれている。明治17年(1884)に白河の有志と会津藩関係者によって建立された。
 「銷魂碑」 の三文字は旧会津藩主松平容保(かたもり)の筆で、碑の文は旧会津藩士で当時東京大学教授だった南摩綱紀(なんまつなのり)によるものである。

戦死墓
 この地の背後にある稲荷山は、慶応4年(1868)5月1日、白河における戊辰戦争(白河口の戦い)で激しい戦闘があった場所である。 この日一日で会津藩や仙台藩など、奥羽越列藩同盟側の諸藩では約700名が戦死したとされる。 この碑は、会津藩戦死者を弔うため、戊辰戦争後まもなく地元新町(一番町~九番町をさす)の人々が建立した。
 「戦死墓」 の三文字は白河(のち棚倉)藩阿部家の重臣で、俳人の阿部正脩(まさつね・秋風と号す)の筆である。

銷魂碑

戦死墓