鐘楼
本堂に掛かる法永山の扁額
妙徳寺本堂
白河藩士の子として天保5年(1834)に白河で生まれる。通称は運八郎、不求庵と号した。天文学や数理学を学び、測量術を習得した。
明治には師範学校の算術教授となるが研究のため辞し、明治19年(1886)には自らの測量器 「方静儀」 が工部省に採用された。私塾では多くの弟子を教え、外務大臣などを務めた後藤新平もその一人という。
また、諸芸にも通じ、特に和歌は毎週歌会を催したという。
同20年(1887)には、国家事業として行われた白河での皆既日食観測に地元学者として協力している。
同36年(1903)に70歳で没した。
(白河観光物産協会)
しだれ桜
聖観世音菩薩立像
大正8年(1919)の常夜燈
市川方静の墓
市川方静の墓と供養塔群
市川方静の墓解説