顕彰碑

文化10年(1813)の廿三夜塔

五輪塔

明治31年(1898)の十九夜塔

和知風光(夕顔庵・巽々坊)
 元禄14年(1701)専念寺門前、穀屋、和知市三郎の子として生まれたと伝えられる。江戸に出、貴志沾州の門を叩き、のち室井其角の高弟、深川湖十(老鼠肝、木者庵)に師事する。
 元文3年(1738)頃、湖十より許されて芭蕉第四世宗匠となり、県内はもとより、秋田、盛岡、前橋等にも多数の門弟を抱え、享保~宝暦期の俳壇で活躍する。
 寛延4年(1751)秋から一年間、先師芭蕉。湖十の杖の跡を辿り、奥の細道の旅に出たが、その足跡は津軽の海を越え、松前にまで及んだ。
 帰郷後、長年に亘る俳業を纏めて、句集「宗祇戻」を刊行。
 宝暦5年(1755)4月26日没。法名「文連社良殊松誉風光居士」享年55歳。

蜩塚
 芭蕉第四世宗匠和知風光が、元文3年(1738)に亡くなった老師、深川湖十(老鼠肝)を悼んで手向けた句碑。当初山門傍、小峰桜の下にあったが、その後現在地に移された。正面に湖十の法名「木者庵勤誉老鼠肝土身大徳」、右側面に湖十自筆の辞世句
  蜩や蝉のしらざる所まで
が彫られており」、左側面に一鳩林午寂の手になる建碑の理由、背面にその銘にかかわる詩が刻まれている。
 午寂は室井其角門の俳人で、武陵(江戸)の人。幕府に仕えた医師で、儒者でもある。

 中根家は保元の乱(1156)で平清盛に討たれた平忠正を祖とし、その末男正持が三河国道根六郷(愛知県岡崎市周辺で中根と俗称)に移り中根氏と称したと 「寛政重修諸家譜」 にある。中根氏はこの地に城を構えていたが、応永28年(1421)に松平信光に滅ぼされたと伝えられ、その後、今川氏、織田氏を経て松平清康・廣忠・家康に仕えた。
 中根忠貞は男子なく主君家康と同盟関係にある織田信長の弟信照を養子に迎えた。信照の長男忠実は家康に命ぜられ徳川四天王の一人本多忠勝の付家老となり忠勝の妹を娶り三千石を領した。二男正貞の孫貞吉が正保3年(1646)久世大和守(のち幕府老中)らの斡旋で忍城主阿部忠秋(幕府老中)に仕え四百石を領し白河藩中根家の初代となる。
 以後明治4年(1871)の廃藩置県まで代々物頭・番頭・家老などの重役を勤めた。当寺の墓は五代中根市左衛門貞堅・六代中根四郎五郎貞幹の二柱で、由緒正しき家柄により「院殿居士」の法号が贈られている。

山門

専念寺本堂

本堂に掛かる大慈山の扁額

和知風光の墓(左) ・ 蜩塚(右)

慶長6年(1601)の法華経一万部供養記念碑

中根市左衛門貞堅(五代)・中根四郎五郎貞幹(六代)の墓

阿弥陀如来三尊像を祀る本堂内陣

地蔵堂に掛かる子安地蔵尊の扁額

地蔵堂