この石碑の短歌の作者 「八握髯翁」 は、西郷頼母近直と称する幕末会津藩の重臣でした。1830年、会津藩家老の嫡子として生を受け、西郷家を継ぎ39歳の壮年の時に戊辰戦争に巻き込まれ、1930年(明治36年)74歳で波乱の生涯を閉じました。
この地、白河・稲荷山は戊辰戦争での屈指の激戦地でした。奥羽列藩同盟の 「東軍」 と、新政府を旗頭とする薩長連合を主とする 「西軍」 の主力がぶつかる攻防の要の地点でした。この戦いで、西郷頼母は会津郡の総督として陣頭に立ち、1866年(慶応4年)5月1日、一敗地にまみれ西軍は一挙に会津攻略に軍勢をすすめ、「明治維新」
の誕生が確立されてゆきます。~中略~
敗戦の将・西郷頼母は一族自刃という悲痛の思いから生涯のがれることなく明治の新時代に人生の後半を流転させます。朝敵会津という極印の宿命を背負い、藩論に逆らい非戦・恭順を主張した腰抜け、切腹して責任をとるべきを生き永らえる臆病、などなど・冷酷な世評にさらされ、「身をかくすことのできるかたつむりがうらやましい」
と感慨を歌に残しました。
この石碑は西郷頼母自筆の歌を基にしました。また後年、白河通過の折、次のような歌も詠っています。
「旅にねし むかしの夢の あととへば うらみをしるや 白河の関」
一個人の短歌ではありますが、近代日本が形成されてゆく歴史の流れの中でのほんの僅かな一閃の間です。この戦跡の地に歌碑を建立しました。大仰ですが、「戦争」
とは何か、「人生」 とは本当に佩ないものなのか。西郷頼母翁の 「蝸牛への寄心」 に少しでも近づきたいという願いを込めて歌碑建立の
趣意とします。
(西郷頼母研究会)
会津藩家老・西郷頼母の歌碑
西郷頼母の歌碑建立趣意
うらやまし 角をかくしつ 又のへつ 心のままに 身をもかくしつ
戊辰戦争白河口の戦い戦死者名簿碑
戊辰之碑の先に白河口(鎮魂碑方向)が見える
戊辰之碑