境の明神に地に二社ある。その一つは天喜元年(1053)4月14日、紀州和歌浦の玉津島神社を勧請したと伝えられている。祭神は衣通姫(そとおりひめ)である古代国境には住吉神社(中筒男命・なかつつおのみこと)と玉津島神社の両神を祀ることが慣わしであったという。両神とも和歌の神として知られ、女神は内、自らの国を守り、男神は外、他地方を抑えるという考えがあるという。
 京の都と奥州を結ぶ道は、古代には東山道(のち関街道)があり、伊王野谷を流れる三蔵川を北上し白河の関に至る道である。途中の追分には追分明神(住吉玉津島神社という)が鎮座している。祭神は衣通姫である。
 中世(鎌倉時代)には鎌倉と奥州を結ぶ奥大道(鎌倉街道)が確認されている。さらには奥州道中の前身(芦野では往古街道の呼称がある)がいくつかの紀行文から知られている。近世(江戸時代)になって江戸と奥州を結ぶ奥州道中が整備され、参勤交代をはじめ交通、流通の幹線として多くの人馬の往来があった。
 境の明神は、このような時代背景の中、旅する人々によって道中安全の神として信仰の対象となったものである。
 近年、境の明神の二社をめぐって祭神の異説があるが、江戸時代の文献には二社とも「大明神」「玉津島神社」とし、宿村大概帳や奥州道中分間延絵図には、関東側を玉津島神社とし、奥州側を境明神tぽしている。
 境の明神の由来は国境の神がその原形であり、当初は小さい祠であったろうと推察される。その後、為政者や経済、信仰などの事由によって現在のような社が形成されてきたものであろう。
 境の明神に二社が並立しての存在が確認できるのは極めて稀である。那須町以外では茨城県と福島県境や旧黒羽町須佐木と須賀川境、旧馬頭町と大子町の県境に明神峠が存在するが、いずれも建立時期に違いもあり、目的もまた異なるが、二社の存在が明確にはなっていない。
 国境(県境)に建つ二社の歴史的な意義をさぐり、正しく後世に伝えることも重要な課題であろう。

水天宮大権現

安政2年(1855)の常夜燈

玉津島神社由緒

 玉津島神社とよばれ、奥羽川の住吉神社と並立している。創立は古く、天喜元年(1053)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発展とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。
   (那須町教育委員会)

玉津島神社本殿

玉津島神社拝殿

境の明神大日如来像

玉津島神社鳥居

峠の明神解説

阿形の狛犬

吽形の狛犬