白河の関は古くから二所之関と呼ばれ、八溝準平原の中を横断する奥州路はここで道を幾通りにも選べるのである。白河楽翁公により指定された今の旗宿道は其の一本である。然しこれより西側三キロの所を通っている白坂道は昔からよく利用され、古の関蹟にみられる関の男女の明神址があり、古関の体裁をもっともよく保ちながら、白坂の関址は全く無視されて来た。余、多年関境の研究に没頭し、江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。茲に白河二所之関址立証を機とし、白坂道白河関址に祈念碑を建立し、永く白河二所之関の意を伝承せんとするものである。
 昭和57年7月5日建立  理学博士岩田孝三

南部屋碑

白河二所之関址碑