棚倉藩士小池理八の供養のために建立された碑である。理八は慶応4年(1868)5月1日、白河口の戦いの桜町方面の戦闘で足に重傷を負い、立って戦いを続けられないと悟り自決した。
当時の白河の歌人・長瀬文豊は 「武士(もののふ)の 心の駒は いさめども 黄泉(こうせん)までとは すすめざりしを」 と詠んでいる。
(白河観光物産協会)
結城宗広は、白河結城氏の祖、祐広の子で、今から約680年前の南北朝時代初期に鎌倉幕府討伐などに活躍した武将です。元弘3年(1333)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐の命に従って鎌倉を攻め、幕府を滅亡させ、建武の新政では陸奥国支配の重要な役割を担いました。
その後、宗広は後醍醐天皇と対立した足利尊氏の軍を京都などで破り、北朝(尊氏側)の成立後も陸奥国の南朝勢力(後醍醐天皇側)の中心として活躍しましたが、京都から帰国する際、伊勢国(三重県)で病没しました。享年70余歳と言われています。
関川寺は結城家の菩提寺で、宗広の開基と伝えられています。ここはかつて結城氏の館だったと考えられる場所で、土塁や掘が遺されています。
(白河観光協会)
中村勘助の妻の墓
本田東陵は通称を龍蔵、諱を常安、字を文仲といい、享保10年(1725)熊本に生まれ、熊本藩儒学者秋山玉山に朱子学を学び、のち京都の伏見に住んだ。白河藩主松平定邦(松平定信の養父)の時代に召し出され、定信が家督を継ぎ、寛政3年(1791)に藩校立教館を創設すると教授に就任し、藩士子弟に教育を行った。同8年に没し、関川寺に葬られた。
享年72歳。墓碑銘は門人の広田憲令らが記したものである。
(白河観光物産協会)
赤穂義士の一人である中村勘助は、白河藩主を務めた松平大和守家の家臣・三田村小太夫の子で、赤穂藩士中村庄助の養子となりました。元禄15年(1702)、勘助は妻子を白河の実弟三田村繁右衛門に預け、吉良家への討ち入りを遂げました。
この事件により、長男の忠三郎(15歳)は遠島、二男の勘次(5歳)は浅草の曹源寺に預けられる処分が下されました。妻と娘はそのまま三田村家に預けられ、妻は享保7年(1722)、63歳で白河にて没しました。
(白河観光協会)
白河結城氏の初代祐広は、鎌倉時代後期に白河に下向したと伝わる。二代目の結城宗広の時に 「白川城」 を築き本城とし、以後数百年にわたって白河結城氏の拠点となった。宗広の嫡男結城親朝が、阿武隈川に面した独立丘陵に築いたのが
「小峰城」 で、以後一族の小峰氏の居城となり、後に白河結城氏の本城となる。
現在、関川寺境内地の西側から北西にかけて、土塁や空堀が残されている。江戸時代の文化5年(1808)に作成された 「白河城下絵図」 の記載から、ここは谷津田川の河岸段丘を利用した東西に長い方形居城であったと判断される。規模については、絵図からの推定値で東西220m、南北180mほどと推定されている。
館跡の具体的な年代は明らかではないが、遺構の規模・形態などから、その始まりは鎌倉時代後期頃の結城氏の居館であった可能性が考えられ、現存する土塁が際立って高いことなどから、戦国時代にも使用されていたと推測される。現存する土塁・空堀は、白河市の史跡に指定されている。
関川寺は「白川城主結城宗広」が延元元年(1336)に七堂伽藍を造営寄進し、結城家の菩提寺として開基したと伝えられている。
曹洞宗の古刹で、中世に白河を本拠とした白河結城氏の菩提寺として古くは市内の関川窪に所在したが、16世紀末に現在地に移転し、その時に洞光山名称を東光山に改めたという。明和2年(1765)火災で七堂伽藍を焼失。その後の慶応元年(1865)に烏(カラス)火事といわれる火災に見舞われるなど再三火災で堂塔を焼失したが、再建され現在に至っている。境内には、結城宗広が陣没、延元元年(1336)五輪塔碑の墓所がある。 以下略
道元禅師の中国天童寺における典座教訓
宝暦11年(1761)の関川寺銅鐘
結城宗広の墓
本田東陵墓碑
東奥禅林関川寺寺標
千人力燈 (常夜燈)
大勢至菩薩
宝篋印塔
六地蔵石幢
棚倉藩小池理八供養碑
白川城主・結城宗広公像
白川城主結城宗広公と関川寺
関川寺本堂