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奥州街道   (大田原~芦野


平成30年10月15日(月)   ☁|☀    大田原~芦野    19.0㎞
前回(H30.9.8)は、鍋掛宿の手前でゲリラ豪雨に遭い、先に進むのを断念したため、今回は那須塩原駅から前回地点(練貫交差点)まで出て街道歩きの再開である。この先の奥州街道は途中の宿泊施設が街道沿いに少ないので、ちょうどいい距離の設定が難しい。大田原宿から先は、鍋掛宿・越堀宿・芦野宿と続く。

那須塩原駅 練貫交差点 石塔群 愛宕神社
早朝の那須塩原駅西口からは、那須連山がきれいに見えている。 那須塩原駅から練貫交差点までは、タクシーを使用して行こうと思ったが、午前7時からの営業で、あらかじめ予約が必要だったため、前回同様約50分かけて歩きで出ることとなった。
ここから前回の続きのスタートである。
練貫交差点から緩やかな上り坂を600mほど進むと、左手に奥州街道標柱のほか、宝暦6年(1756)の石燈籠・十九夜塔・青面金剛の庚申塔などが建っている。
宝暦6年の石燈籠は道標を兼ねており、「右奥州街道・左原方那須湯道」 と刻まれている。
石塔群の左手奥の段上に愛宕神社がある。
愛宕神社は元禄7年(1694)の創建と言われ、境内には元禄12年(1699)の石燈籠、元禄10年(1697)の地蔵菩薩、稲荷神社石祠などがある。

明治天皇碑 木製道標 馬頭観音 馬頭観音
街道に戻ってやや東に曲がる街道を進むと、左手に那須連山が見え、下り坂となった左斜面に明治天皇御駐輦紀念碑が建っている。
明治9年(1876)明治天皇は、東北巡幸の際にここで休息された。
明治天皇碑の先の十字路左角に木製道標 「←コウヤマキ3.6㎞」 が建っている。
この十字路は大田原市と那須塩原市の境で、これより北側は那須塩原市である。十字路の右手筋は、毎年12月から3月にかけて白鳥が飛来する羽田沼へ続いている。
那須塩原市に入って雑木林の間の長閑な一本道をどんどん進んでいくと、右手筋に大野養蜂園入口標識があり、その向かい側に風化の進んだ馬頭観音が建っている。 先に進んで左手の那須脳神経外科病院入口標識を過ぎると、右手の林の砂利道口に馬頭観音が2基建っている。
1基は文政4年(1821)の馬頭観音である。

神社 交通安全地蔵尊 不動堂 樋沢神社
馬頭観音の直ぐ先、左手の黒磯消防団第2分団第4部の建屋の奥に神社がある。
鳥居にも拝殿にも扁額が無く、何の神社か不明であるが、拝殿内には2つの小社と神輿が安置され、境内には石祠が3基並んでいる。
先に進んで左手に自販機が数台並ぶ 「なすや」 商店を過ぎ、車の往来がほとんど無い長閑な街道を進むと、左手に交通安全祈願地蔵尊が建っている。 直ぐ先の左手畑の奥に不動堂がある。
不動堂には、明暦2年(1656)の寄木造りの不動明王像が祀られている。
地元樋沢では 「お不動様」 と呼ばれて親しまれている。
続いて左手の樋沢公民館の奥に樋沢神社がある。樋沢神社は旧八幡社で、境内には八幡太郎義家愛馬蹄跡石がある。
陸奥平定に向かう源義家は小高い丘の上に鎮座する源氏の氏神である八幡社が目に入ると、戦勝祈願にと馬で一気に駆け上がり、勢い余って岩に蹄跡が刻まれたと伝わっている。奥の巨岩は葛籠に似ているところから、義家が 「葛籠石」 と命名した。

樋沢の大沼 鍋掛神社・一里塚跡 清川地蔵尊 鍋掛宿
樋沢神社から程なく、右手に 「伝説の大うなぎ樋沢の大沼」 の看板がある。
看板を右に入ると沼があったと思われる地に解説板が建っている。坂上田村麻呂が蝦夷鎮圧に向かう途中、この地の住民から人を喰う大うなぎの被害を聞くと、沼を掘抜き干潟として、大うなぎを退治したという。
これによって出来上がった干沢が地名の樋沢になったという。
続いて左手の擁壁脇に木製の 「鍋掛の一里塚」 標識があり、石段を上ると鍋掛神社鳥居の右手に鍋掛の一里塚が復元されている。ここは江戸日本橋から数えて41里目の一里塚跡である。鳥居の先には、杉林の間を通る細い参道があり、突き当りに鍋掛神社がある。
鍋掛神社は旧愛宕神社で、昭和30年(1955)に元無格社温泉神社と鶏鳥神社が合祀されて、鍋掛神社と改称された。
街道に戻ると、直ぐ先の鍋掛交差点を渡った左手に清川地蔵尊がある。
清川地蔵尊は、延宝7年(1679)の造立で、子育て地蔵尊として地元の信仰が篤かった。
境内には南無阿弥陀仏名号碑・馬頭観音・庚申塔などの石造物がある。
清川地蔵尊の先は鍋掛宿の直線の街道が北東に向かって延びており、歩道と車道を分ける縁石が先まで続いている。

鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。江戸時代初期の正保3年(1646)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。


八坂神社 正観寺 鍋掛宿消防小屋 旧道口
鍋掛駐在署を過ぎると、左手に八坂神社がある。境内には大小2つの社があるが、鳥居の奥正面の小さい祠が八坂神社と思われる。
境内には文化5年(1808)建立の芭蕉句碑 「野を横に馬牽きむけよほととぎす」 がある。
八坂神社の隣に真言宗智山派の摩尼山蓮華院正観寺がある。
正観寺は、室町時代の明応年間(1492-1500)に創建された云われ、明治後期の火災で本堂が焼失した。現在の本堂は平成26年に再建されたものである。
境内には、推定樹齢260年の枝垂れ桜があり、山門は旧本陣門を移築したものである。
正観寺の参道脇に蔵造りを模した鍋掛宿消防小屋がある。
この消防小屋の前に年代がはっきりしない
道標が建っており、「向 右芦野ヨリ白河ニ至 左○○ヨリ大田原ニ至」 と刻まれている。
街道を先に進むと、右手に舗装と土道の混じった旧道がある。この旧道の突き当りに御仮屋跡があり、標石が建っている。

那珂川の渡し跡 昭明橋 那珂川の渡し跡 越堀宿
御仮屋跡を左に折れて県道72号線を渡ったところに安政6年(1859)の馬頭観音などが建っている。
ここが鍋掛宿側の那珂川の渡し場跡である。江戸時代初期頃は渡河するには必ず川人足に依頼し、渡し賃を払わなければならなかった。江戸時代末期には舟橋が架設され、通行料を取っていた。
県道72号線に戻り、那珂川に架かる昭明橋で渡っていく。橋の名は、昭和9年2月20日に木橋として架設され、「昭和の新しい時代を明るく」 という願いを込めて旧鍋掛村の住民が命名したものである。那珂川は那須岳山麓に源を発し、栃木県東辺部をながれたのち、茨城県を南東に流れて太平洋に注いでいる。
渡詰めには昭明橋架橋記念碑が3基建っている。
昭明橋を渡り、T字路突き当りを右折して河原に出た辺りが那珂川の渡し跡である。
ここには枡形道が残っており、越堀宿の江戸口(南口)に当たる。
枡形道の先は越堀宿の直線の道となるが、当時を偲ぶ建物などは無い。
越堀宿は、参勤交代で江戸に向かう仙台藩の伊達候が那珂川の川留めに遭い、越堀に小屋を建てたのが宿の始まりで、その後、正保3年(1646)に正式に越堀宿が解説された。
写真手前の新しい民家(旧仙台屋商店)が問屋場跡である。

本陣跡 浄泉寺 加茂神社 枡形道
問屋場跡から2軒先の町田屋商店が越堀宿本陣跡である。
建坪は117坪あったという。
先に進むと街道右手に真言宗智山派の浄泉寺がある。
浄泉寺の創建年代等は不詳であるが、境内には越堀宿(黒羽藩)と鍋掛宿(天領)との境界石、明治天皇御駐輦之碑などがある。
浄泉寺境内奥の丘上に加茂神社がある。
加茂神社は正徳3年(1713)の創建と言われ、拝殿には小社三社が祀られている。
参道石段脇に越堀の大杉の看板があったが、大杉に気が付かず目にすることはなかった。境内には庚申塔・稲荷神社石祠などがあlる。
街道に戻ると堀越自治公民館前が枡形道となっている。
ここには奥州街道越堀宿枡形の地碑のほか、奥州街道越堀宿解説が建っている。
この辺りが、越堀宿の白河口(北口)である。

征馬之碑 越堀宿坂本屋碑 記念碑 高久靄厓の墓
越堀自治公民館横の筋脇に征馬之碑・殉役軍馬之碑のほか、地蔵菩薩坐像・廻国供養塔が建っている。 続いて右手段上に石碑が2基並んでいる。
右手の小さい方は越堀宿坂本屋碑、左手の大きい方は道標(里程)で 「右これより江戸四十里・左これより白河宿七里」 と刻まれている。
民家が途切れて、やや坂道に差し掛かった右手の斜面に記念碑が建っている。
記念碑には、「防火水路施設記念之碑」 と刻まれている。ここから切通の上り坂となり、右にカーブすると下り坂となる。
先に進むと左手の段上に標柱が建つ高久靄厓の墓がある。先に進んで回り込むと、高久家之墓地に高久靄厓の墓がある。
高久靄厓は、寛政8年(1796)、下野那須郡杉渡戸(現栃木県那須塩原市黒磯)に生まれた江戸時代後期の文人画家である。南画家谷文晁に学び、細川林谷・岡田半江・渡邊崋山等との親交があった。

伊勢神宮遥拝碑 馬頭観音 金比羅神社 農道新設記念碑
街道に戻ると右手の杉渡土自治公民館の入り口に伊勢神宮遥拝碑が建っている。
遥拝碑の後ろの段上には、石祠と馬頭観音・供養塔が並んでいる。
杉渡土自治公民館の向いの段上に弘化2年(1845)の馬頭観音が祀られている。 直ぐ先の右カーブ左手に鉄製の祠があり、左に金比羅神社碑、右に小社が安置されている。 先に進むと左右に稲田が広がり、ここから先はやや上り坂となり、左手に昭和31年(1956)建立の農道新設記念碑が建っている。

馬頭観音 富士見峠 温泉神社 寺子の一里塚跡
続いて左手に安政2年(1855)の馬頭観世音と小さな明治24年(1891)の馬頭観音像が建っている。
この先で二車線道路は一車線となり車が往来する際は注意が必要である。左手には那須連山が見えている。
上り坂を進むと、程なく標高295.5mの富士見峠に到着する。
往時は富士山が遥かに望め茶屋があったという。幕末の志士清川八郎が日誌に 「那珂川を越えると二十三坂、長い坂に耐えて歩き通し芦野に着く」 と記している。
越堀より芦野間は 「二十三坂七曲り」 と呼ばれた難所であった。
富士見峠を越えると正面に寺子集落が見え、左手の丘上には温泉神社がある。
温泉神社の創建年代等は不詳であるが、境内には明和6年(1769)の石燈籠、大黒様、明和7年(1770)の手水石などがある
折しも子供神輿が繰り出し、街道を練っていた。
直ぐ先の寺子交差点の右手にある寺子一里塚公園内に塚が復元されている。
両塚は寺子交差点の東西にあったが、道路改修工事に伴い取り壊された。ここは江戸日本橋から数えて42里目の一里塚跡である。
傍らには、馬頭観音が2基建っており、その内の1基は富士見峠から移設された安永4年(1775)の馬頭観音道標である。

エドヒガン 会三寺 余笹川見晴らし公園 旧道
寺子交差点を左折して20mほど進んだ左側にエドヒガンの道標があり、その先を100mほど入った右手斜面に推定樹齢350年のエドヒガン桜がある。
このエドヒガンは平成元年(1989)に 「とちぎの名木百僊」 に選ばれ、「寺子のサクラ」 として多くの人に親しまれている。
街道に戻って寺子交差点から先の下り坂を進むと、左手奥に真言宗智山派の普門山蓮乗院会三寺がある。
会三寺は、文亀元年(1501)謙応和尚の開山であり、境内には地蔵堂がある。この地で麻疹が流行り大勢の子供が亡くなった。第14代住職法印旺盛が111体の木造地蔵尊を彫り菩提を弔った。境内には地蔵菩薩立像・針供養塔などの石造物がある。
会三寺の直ぐ先右手に余笹川見晴らし公園がある。平成10年(1998)台風4号による洪水で多数の犠牲者が出た。
公園内には、余笹川災害復旧復旧事業竣工記念碑、天皇陛下・皇后陛下行幸啓記念碑が建っている。
余笹川見晴らし公園の斜向かいに余笹川縁へ向かう旧道がある。
川縁に近づいた辺りが余笹川の渡し付近である。

地蔵堂 寺子橋 だるま石 旧道
旧道を進むと左手に地蔵堂があり、寺子地蔵尊が祀られている。この地蔵尊は、享保12年(1727)の造立で、享保の大飢饉による子供の餓死者を供養している。
地蔵堂の脇には、文政13年(1830)の馬頭観音、延享2年(1745)の念仏供養塔などが並んでいる。
この先は、余笹川見晴らし公園前まで戻って、寺子橋で余笹川を渡っていく。
余笹川は、那須郡那須町大字湯本の朝日岳に源を発し、那須高原を南東に流れ、下流で那珂川に合流している。
橋の手前には、寺子橋架設記念碑が建っている
寺子橋の渡詰めから左の堤防沿いに降りて進むと、旧道口脇にだるま石がある。
この石は、元は川の中にあって、水位の目安になっていた。
だるま石を過ぎると、余笹川の渡し付近から東に延びる旧道が続いている。
右手には県道72号線が並行している。

八雲神社 弁慶の足踏み石 道標 記念碑
先に進むと左手の山裾に鳥居があり、小山の上に八雲神社が鎮座している。
八雲神社の創建年代等は不詳であるが、主祭神は素戔嗚命で、明治44年(1911)に蛇沢の愛宕神社と黒川の温泉神社を合祀したという。
境内は、すっきりとしていて手水石と拝殿があるのみである。
街道に戻ると右手を走る県道72号線との合流地点に弁慶の足踏み石などの石造物がある。
弁慶の足踏み石とは、文化4年(1807)の馬頭観音の側面に草鞋のような形の窪みがあり、これが地元の言い伝えで弁慶が馬に乗る際に付けてしまった草鞋跡とのことである。
傍らには、牛像の畜魂碑・青面金剛の庚申塔・如意輪観音などがある。
県道72号線に合流して直ぐ、右手の擁壁上に折れた道標が建っているが、刻まれた文字は判読できない。
ここから先は500~600mほどの長い上り坂となる。
上り坂の頂上付近にある藤田建築工房の斜面に農業構造改善事業記念碑が建っている。
余笹川の水の利用法を改善して農業生産基盤の整備を行ったということのようである。

地蔵菩薩 石造物 温泉神社跡 愛宕神社跡
農業構造改善事業記念碑の先から下り坂となり、豊岡交差点を越えると、左手の斜面に墓地がある。
この墓地の一角に石祠に安置された地蔵菩薩坐像がある。
地蔵菩薩を過ぎると再び緩やかな上り坂となり、左手に天保13年(1842)の馬頭観音、天保15年(1844)の二十三夜塔、嘉永6年(1853)の馬頭観音などの石造物が並んでいる。
また向かいの畑の中には石祠が1基ある。
石造物の直ぐ先の十字路を右折すると、左手の林に一面六臂の青面金剛の庚申塔と元文3年(1738)の如意輪観音十九夜塔が建っている。
ここは黒川の温泉神社跡で、今は、先に寄った石田坂の八雲神社に合祀されている。
街道に戻ると十字路の直ぐ先、左手の段上に明治22年(1898)の常夜燈が2基並んで建っている。ここは愛宕神社の参道口で、この奥の林に参道が続いており、林の奥に進むと地蔵菩薩立像が安置された石祠と首のない地蔵尊が2体並んでいる。ここは蛇沢の愛宕神社跡で、今は、先に寄った石田坂の八雲神社に合祀されている。

馬頭観音 旧道口 道標 黒川橋
街道に戻って坂道を進むと、上り詰めた辺りに那須塩原市と那須町の標識が建っており、その先、右手に安政4年(1857)の馬頭j観音がある。
馬頭観音は何時から倒れているのか、草や蔓に覆われていた。
馬頭観音の先は下坂の道で、どんど進ん行くと、右手に旧道口がある。 旧道に入って間もなく右手筋角に道標が建っており、「右新田ヲ経テ黒羽ニ至」、「左芦野町ヲ経テ白河ニ至」 と刻まれている。
傍らには、秋葉山碑が建っており、街道を挟んだ向かいには、倒れた馬頭観音が数基並んでいる。
旧道は黒川に突き当たり、かつては黒羽藩と芦野知行地で管理された土橋で対岸へ渡っていた。
この先は、土手道を左に進んで、黒川に架かる黒川橋で渡っていく。
黒川は、福島県西白河郡西郷村の赤面山近くに源を発し、下流で余笹川に合流している。

迂回路 夫婦石 夫婦石の一里塚跡 旧道口
黒川橋の渡り詰めを道なりに擁壁沿いに進み、かつては擁壁上に旧道があり、その先の夫婦石に出ていたが、現在は旧道が消滅しているため、擁壁が途切れたところから左に迂回して行く。
先に進むと左手に荒れた小道があり、丘上の明治天皇碑まで行けるかと思ったが、藪道は荒れ放題で断念した。
先に進んで右から回り込んで来る県道72号線に合流し、少し右に入ったところに夫婦石神社があり、夫婦石が御神体として祀られている。
境内には、財福地蔵・不動明王・合掌地蔵などの石造物が並んでいる。
街道に戻り右手の瑞穂農場入口を過ぎると、その先に夫婦石の一里塚跡があり、両塚が残っている。
ここは江戸日本橋から数えて43里目の一里塚跡である。
夫婦石の一里塚跡を過ぎてやや上り坂の道を進み、切通しを過ぎて下り坂になると、左手に分岐する旧道口がある。

馬頭観音 足尾大神 菖蒲橋 記念碑
旧道の下り坂を進むと右手に馬頭観音が3基並んでいる。
左端の大のは天保8年(1837)の馬頭観音で、その隣は倒れており、右端に小さな馬頭観音が建っている。倒れている馬頭観音を起そうとしたが、重くて持ち上がらなかった。
先に進むと逆Y字路があり、左手筋は芦野温泉への入口で、この向い側(街道右手)に明治3年(1870)の足尾大神が建っている。
大神碑にはサンダル・足袋などが掛かっており、足の病に御利益があるという。
この先には、ところどころに馬頭観音が建っている。
直ぐ先で菖蒲川に架かる菖蒲橋で渡ってい行く。菖蒲川は那須郡那須町を流れる那珂川水系の一級河川である。 菖蒲橋を渡ると切通の先で分岐した県道72号線に合流し、その先の十字路右手に、ほ場整備竣功記念碑が建っており、十字路左手には木製道標 「←健武山温泉神社0.5㎞ ・ 芦野氏旧墳墓0.7㎞」 が建っている。

芦野橋・河原町地蔵尊 芦野宿 枡形道 石碑石塔群
先に進んで国道294号線を越えると、奈良川に架かる芦野橋がある。
奈良川は、白坂に源を発し、下流で合川に合流しており、この地の灌漑や生活用水であった。芦野橋の渡詰め左手には、享保12年(1727)の河原町地蔵尊(地蔵菩薩半跏像)があり、ここが芦野宿の江戸口(南口)である。
河原町地蔵尊から左折すると芦野宿の宿並みが始まる。
芦野宿は、芦野氏が鎌倉時代初期から支配した土地である。芦野氏は、那須一族の血をひくため一万石以上の待遇を受け、参勤交代も行った。天保14年(1843)の奥州道中宿村大概帳によると家数168軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒であった。宿内を進むと各戸の前に屋号を付けた石燈籠が置かれている。
先に進むと南の枡形道があり、枡形道を抜けるとT字路に突き当り、右手から来る道に合流する。
合流地点には、関東ふれあいの道道標が建っている。街道はT字路を左折して行く。
街道はT字路を左折するが、右折すると右手に石碑石塔群がある。
石塔群は、征馬大神・馬頭観音・白雲山(愛宕山の別称)・横田千之助先生碑などである。ここから宿並みを外れて更に進むと、三光寺、最勝院、芦野氏陣屋裏門、芦野氏旧墳墓があるので立ち寄っていく。

三光寺 最勝院 芦野氏陣屋裏門 芦野氏旧墳墓
石碑石塔群の直ぐ先、左手段上に真言宗の台明山明星院三光寺がある。
三光寺は、弘仁9年(818)弘法大師が勅命によって一本の香木に三体の歓喜天像を彫り、そのうちの一体を応永年間(1394-1427)に宥覚上人が勧請したと伝えられている。このため三光寺は、日本三所聖天(浅草・妻沼・芦野)の一つと云われている。
三光寺から200mほど南に進んだ左手に曹洞宗の米沢山最勝院金光峯寺がある。
最勝院は、永禄元年(1558)の創建で、初めは律宗寺院として開山、その後、在室玄隣和尚を中興開山として曹洞宗へ改めた。
ここは芦野氏の旧菩提寺であり、墳墓はここより南へ行った国道294号線沿いにある。
境内には十六羅漢・六地蔵尊・地蔵菩薩坐像・道雄子安地蔵尊などがある。
最勝院から更に南に進むと左手に芦野氏陣屋裏門が移築されている。
この門は、旗本芦野氏の陣屋(現御殿山)の裏門として建造されたもので、明治維新後に大塩家の祖先が買い受け、解体して現在地に復元移築したものである。
更に南に進んで国道294号線に出ると、左手の斜面に芦野氏旧墳墓標柱が建っており、ちょっと踏み込むと墓碑・五輪塔がまばらに点在している。
伝承によると、芦野氏の祖、余一宗隆七世の孫、加賀守資忠の三男・資方より資泰に至る18代の墓域と云われている。

芦野宿並み 奥州道中芦野宿碑 明治天皇碑 丁子屋
南の枡形道を抜けたT字路まで戻り、ここから芦野宿並みを進んでいく。 先に進むと右手に奥州道中芦野宿碑が建っており、傍らに住吉屋の屋号のある石燈籠が建っている。 芦野宿碑の隣は、戸村家が勤めた問屋場跡で、奥の仲町集会施設の前に明治天皇行在所記念碑が建っている。
明治9年(1876)巡幸の際に旧問屋の戸村家が宿所になった。
問屋場跡の向いに旅籠丁子屋跡がある。
現在は、明治初期創業の鰻料理店となっているが、八畳二間の安達家蔵座敷を残しており、店頭に安達家蔵座敷碑が建っている。

脇本陣跡 揚源寺寺標 平久江家門 揚源寺
丁子屋の直ぐ先左手の 「ほていや」 辺りが脇本陣跡である。
ここは旅籠吉川屋跡で、脇本陣は金澤家が勤めた。
ほていやの先の変則十字路右手に延生山地蔵尊参詣道寺標が建っている。
この筋を入っていくと、平久江家門・揚源寺・芦野城跡があるので立ち寄ることとした。
揚源寺寺標から50mほど入ると左手に平久江家の武家屋敷門があり、屋敷の中に推定樹齢400年の枝垂れ桜が聳えている。
平久江家は、江戸時代初期から芦野家の重臣とみられる家柄で、本家は根古家の一段高い地に家屋敷を構えていた。
更に坂道を進むと突き当りに天台宗の東蘆山法性院揚源寺がある。
揚源寺は、永禄7年(1564)、僧都源海和尚の開基と言われ、寛永年間(1624-45)に栄賢和尚により中興開山となった。大正4年(1915)に芳賀郡芳賀町の天台宗延生山地蔵院城興寺の地蔵尊の分影を安置した。このため街道に建つ寺標は延生山地蔵尊参詣道となっている。境内奥には推定樹齢600年のアスナロウが聳えている。

芦野氏陣屋跡 番所跡 芦野宿本陣跡 枡形道
揚源寺の入口を右に入っていくと左手に芦野氏陣屋跡の御殿山がある。
上り詰めると芦野宿が眼下に見え、遠くに那須連山が見える。
また陣屋跡の奥には、推定樹齢約500年余・樹高24mのコウヤマキが聳えている。
街道に戻ると変則十字路の右角に芦野郵便局があり、その敷地に奥州街道道標と芦野町道路元標が建っている。ここは芦野宿の番所跡である。
道標には、「奥州街道 越堀鍋掛ヲ経テ大田原ニ至ル、白坂ヲ経テ白河ニ至ル」、「南ハ伊王野ヲ経テ黒羽ニ至ル、西ハ黒田原ヲ経テ小島二至ル、伊王野ヘ一里、黒田原一里十七町、小島九町」 と刻まれている。
直ぐ先左手の那須屋商店と石の美術館ストーンプラザ辺りが、芦野宿の臼井本陣跡である。 先に進むと北の枡形道があり、この右手角に延宝8年(1680)の庚申塔と大正6年(1917)の馬頭観音が建っている。

弥勒院跡 枡形道先の芦野宿 建中寺 新町地蔵尊
庚申塔の向いの細い筋を入って、奈良川に架かる中島橋を渡ると、左手に享保17年(1732)の青面金剛の庚申塔と宝暦13年(1763)の如意輪観音が並んでいる。
ここは明治の廃仏毀釈によって廃寺となった弥勒院跡である。
街道に戻って北の枡形道を抜けると、北東に向かって真っすぐな芦野宿が延びており、直ぐ右手の池田屋の屋号を付けた石燈籠が建つ民家脇に、昭和49年(1974)撮影の芦野宿並みが掲示されてる。 程なく右手に建中寺参道口があり、入っていくと段上に曹洞宗の保寧山最雄院建中寺がある。
建中寺の創建年代等は不詳であるが、
芦野氏の19代民部資俊から27代資原まで9代の菩提寺となっている。
街道に戻って進むと街道が左に曲がるところに享保2年(1717)の新町地蔵尊と文化12年(1815)の二十三夜塔・文化元年(1804)の三界萬霊塔・大乗妙典一千部供養塔が建っている。向かいの筋奥には墓石や馬頭観音がある。
ここは芦野宿の町はずれで、宿場への出入口(白河口)である。

高橋 遊行柳 温泉神社 甦る豊郷碑
新町地蔵尊前を左に曲がると奈良川に架かる高橋がある。
高橋を渡ると国道294号線を渡ったところに遊行庵があり、木製道標などが建っている。
遊行庵の脇を通り、突き当たりのT字路を左折すると、右手に遊行柳がある。
伝説によると文明の頃(1471)時宗19代尊晧上人が当地方巡化の時、柳の精が老翁となって現われ、上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。いわゆる草木国土等の非情物の成就談の伝説地である。ここは芭蕉、蕪村が訪れており、柳の下に二人の句碑が建てられている。
遊行柳の先の鏡山の麓に温泉神社がある。
温泉神社は、元禄4年(1691)に芦野民部資俊が建立したと言われ、通称 「上の宮」 と呼ばれており、大己貴命、誉田別命などを祭神とし、境内には推定樹齢400年といわれるイチョウの巨木がある。
遊行庵前の国道294号線の街道に戻って先に進むと、左手に甦る豊郷碑が建っている。
これは芦野地区圃場整備事業完成記念碑であり、この辺りは黒羽藩の領地で、肥沃で良質な米の産地であった。
この碑のところから国道294号線に沿った旧道が始まる。

岩倉具視歌碑 愛宕神社 べこ石の碑 国道合流
旧道を進むと左手に岩倉具視が、明治天皇の東北巡幸に随行した際に詠んだ歌碑がある。歌碑には、「みちのくの 鄙のはてまで あきらけき 御代の日影を 仰かぬぞなき」 と刻まれている。� i岩倉具視歌碑のところから舗装された道となり、峰岸集落へ入っていくと、左手の山上に愛宕神社がある。
愛宕神社は火伏の守護神であり、急な石段を這うように上っていくと、山上の祠に愛宕地蔵尊が祀られている。境内には石祠が2基あり、うち一つは崖上の大岩に南を向いて建っているため、後方からしか拝めない。
街道に戻ると直ぐ先の左手段上に牛の形をしたべこ石の碑がある。
この碑は、嘉永10年(1848)10月に芦野宿の問屋を勤めた戸村右内忠怒(ただひろ)が、人倫道徳の本道を衆庶民に教え諭すために撰文したもので、路傍の石に彫らせ建立したものである。
べこ石の先に旧道は続いているが、「この先行き止り」 の標識があり、右に曲がって酷道294号線に合流する。

旧道口 無縁塔 峯岸館兵従軍之碑 石造物
国道294号線に合流して程なく、左手に旧道がある。 旧道に入って間もなく、右手に文政13年(1830)の無縁塔が建っている。
無縁塔は下部が土に埋まって見えないが、「無縁諸霊浮○○」 と刻まれている。
先に進むと左手段上に石碑が3基見える。
左から出羽三山碑、峯岸館兵従軍之碑、峯岸館従軍者之碑である。
戊辰戦争では黒羽藩は官軍として参戦し、近隣農民は峯岸館で洋式の軍事訓練を受けて各地に転戦し戦功を挙げた。
峯岸館兵従軍之碑を過ぎて国道294号線に合流し、先に進むと左手段上に光明真言五百万遍塔・地蔵菩薩坐像などの石造物がある。

旧道口 馬頭観音 二十三夜塔 諭農の碑
石造物の向いから板屋集落へ入る旧道が国道294号線の右手に分岐している。
この分岐点には、
木製道標 「←白河の関跡10.6㎞ ・ 芦野(湯号柳)1.1㎞」 が建っており、直ぐ先で奈良川に架かる下川原橋を渡る。
下川原橋を渡って進むと右手の土手に4基の馬頭観音が並んでいる。
生馬大神・馬頭尊と刻まれた文字馬頭観音2基と馬頭観音像2基である。
先に進んで板屋バス停を過ぎると、右手に建つ火の見櫓の後ろに二十三夜塔・光明真言塔などの石造物がある。石造物の奥には石段があり、山上に何か社があると思われたが、かなり急な石段なので先を急ぐこととした。
板谷村は、黒羽藩領で文化年間(1804-18)の家数は18軒であった。
火の見櫓の先で枝木沢に架かる仲橋を渡ると、上り坂となった左手の民家脇に諭農の碑が建っている。諭農の碑は、べこ石の撰者と同じ戸村右内忠怒が農民を諭すために嘉永元年(1848)に建立したものである。
内容は、病害虫の駆除・予防から、飢饉のための備蓄法、飢人の看護法などが刻まれている。

板谷の一里塚跡 石造物 石造物 石塔
諭農の碑の先は切通しの坂道であり、板谷の一里塚はこの両側の高台に残されている。
ここは江戸日本橋から数えて44里目の一里塚跡である。
切通しの頂上を過ぎると下り坂の左手に明治11年(1878)の生馬大神、寛政8年(1769)の馬頭観音、享保16年(1731)の大乗妙典六十六部供養塔などが建っている。 先に進むと右手の畑の奥の斜面に石造物が4基並んでいる。
一面六臂の青面金剛の庚申塔、地蔵菩薩などである。
続いて右手の段上にある墓地入口に墓石(左)と光明真言百万遍宝塔が建っている。

馬頭観音 馬頭観音 街道 木製道標
先に進んで正面に蟹沢の集落が見える当りの右手斜面上に馬頭観音が4基並んでいる。
明治30年(1899)の生馬大神、明治14年(1881)の馬頭大神、昭和31年(1956)の馬頭観世音などである。
蟹沢村は、黒羽藩領で横岡村の枝村であった。
集落が途切れた先で、右手の木々の下に明治期の馬頭観音が数基建っている。 馬頭観音の先は左側に田畑が広がり、長閑な道が続いている。
先に見えるのは、横岡の集落である。
先に進んで左手に国道294号線が近づいたところに木製道標 「←芦野(遊行柳)2.8㎞ ・ 白川の関跡8.9㎞→」 が建っている。
この先左手に昭和の農具屋の看板を掲げた小屋があり、農機具が収められている。

御大典記念碑 高徳寺 馬頭観音 国道合流
横岡の集落に入ると右手の民家の庭先に御大典記念碑が建っている。大正4年(1915)に大正天皇が訪れた記念碑である。
民家の庭先から奥は温泉神社の参道とのことだが、車が駐車しており先に進むのを遠慮した。
先に進むと右手に真言宗の寶昇院医王山高徳寺がある。
高徳寺は、永禄10年(1567)頃の創建といわれ、現在は無住寺となっているが、
境内には高さ196㎝の地蔵菩薩坐像があり、墓地には戊辰戦争で戦死した農兵の官修墳墓がある。
街道に戻って長閑な道を進み、右手の電波塔を過ぎた先の右手水路から右斜めに入る旧道がある。この旧道を進むと右手の斜面に馬頭観音が並んでいる。
明治33年(1900)の馬歴神・明治6年(1873)の馬頭観世音・大正元年(1912)の馬頭観世音などである。
先に進むと先ほど分岐した旧道に復帰し、その先で国道294号線に合流する。
この合流点には、木製道標 「脇坂・高瀬・板谷→」、「諭農の碑・板谷の一里塚→」 などが建っている。

脇沢の地蔵様 大石燈籠
国道294号線に合流して直ぐ右手の斜面に脇沢の地蔵様がある。
地蔵菩薩立像と地蔵菩薩坐像のほか、文化3年(1806)の馬頭観音、文久3年(1863)の念佛供養塔、享保16年(1731)の観音菩薩などがある。
先進んで沢口沢に架かる船見橋を渡ると、その先右手の三ケ村公民館のところから右手に旧道が残っている。
旧道を進むと国道脇に大石燈籠が建っている。本日はここで終了し、大石燈籠の向いの筋を入って那須陽光ゴルフクラブにある那須陽光ホテルに宿泊する。

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