和銅5年(713)に開通した吉蘇路(きそじ)において、本山は木曽谷から松本へ向かう重要な位置にあった。中世には東山頂に本山城が築かれ、ふもとに本山氏の館(本陣付近)や根小屋から宿場の原型となる集落が形成されていった。
 関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍が開戦当日の慶長5年(1600)9月14日に本山に着陣していた。
 中山道が制定された慶長7年(1602)、幕府代官頭大久保長安は江戸の大普請の号令のもと、木曽の木材を搬出するため、江戸への近道として小野新道を開いた。
 これは桜沢から牛首峠を経て小野、岡谷・下諏訪へ至る道である。慶長18年(1613)に長安の死後大久保事件の連座により、松本藩主石川康長が改易され、小笠原秀政が入封した。
 秀政は慶長19年(1614)、宿駅制度を整備し、本山宿に問屋職を定めた。また洗馬宿・塩尻宿を新設して、もとの塩尻峠越えの道筋が中山道となった。
 本山宿の問屋は、一か月の上15日を小野七左衛門に、下15日を小林弥右衛門に命じ、半月交代とした。上問屋は小野氏(後に花村氏)が脇本陣と兼帯し、下問屋は小林氏が本陣と兼帯し、幕末まで続いた。
 本山宿は、南から上町・中町・下町で構成され、南北の長さ5町20間(582m)、道幅は2間~3間、戸数117、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠34軒であった。松本藩の南境として口留番所が設けられ、米穀・塩、女など通行改めが行われた。宿場用水は南の2つの沢から山斜面に堰や懸樋で引き込み、宿場の中央に用水を通し、5か所に土橋が架けられていた。
 本山の名物そば切りは、宝永3年(1706)の風俗文選に 「そば切りといつぱもと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける」 と紹介された。また本陣では、そば粉やそば切りが諸大名に献上されている。
 文久元年(1861)11月4日、本山宿は14代将軍徳川家茂に嫁した皇女和宮の宿泊地となった。京方10,000人、江戸方15,000人が4日にわたり通行し、空前絶後の大行列となった。助郷20,000人・馬2000疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は2,000本の提灯のお灯りで昼間のようであったと伝えられている。
 慶応4年(1968)2月30日、本山宿の長久寺において、松本藩主戸田光則は東山道軍総督岩倉具定に勤皇の誓約をしたが、制度決定の遅れを理由に、30,000両の軍資金と兵糧、出兵を命じられた。松本藩の戊辰戦争のはじまりとなった。

中山道本山宿説明

明治天皇本山行在所跡碑