今を遡る事、434年前、歴史上戦国時代と言われる天文17年(1548)7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城主小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の敗れる所となり多くの戦死者を残して退却をした。
 武田軍は家臣の戦功を賞する為、首実検を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き上げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思い、ここに埋葬したのがこれら首塚胴塚である。
 その後、戦国時代も終わり、世は豊臣・徳川の時代となり平和が続くにつれて何時しかこれらの塚の存在も忘れられて長い間訪ね弔う人もなく、塚は夏草の生い茂るに任せる惨めな状態にあった。
 昭和10年(1935)に至り柿沢の熊谷善蔵氏はこの有様に大いに無情を感じられて多くの有志者と共に寄附金を集め小笠原氏支流の末裔である小笠原長生子爵の揮毫を得て首塚・胴塚の碑を建立し哀れな戦死者の追善供養を行い冥福を祈ったのであります。
 御来訪の方々におかれましても、この悲惨な戦死者にご同情下され、一掬の涙と共にその亡き御霊のご冥福をお祈り下さい。
 (柿沢ふるさとづくり推進委員会)

歌碑、首塚

街道脇の首塚胴塚案内板

野に山に 討死なせ 益良夫の あとなつかしき 柿沢の畔

首塚・胴塚の由来